源平の人々に出会う旅
寿永2年(1183)7月25日、木曽義仲の進撃によって平家は都を出て西国へ落ちて行きますが、『平家物語』には、平家の人々のそれぞれの別れが記されています。「経正都落」もその一つです。 【仁和寺北庭】 宇多法皇が仁和寺を御所(御室御所)として以来、仁…
建保7年(1219)1月27日、鎌倉三代将軍実朝が鶴岡八幡宮で甥の公暁に殺害されました。公暁は実朝の首を持って逃走し、三浦義村に連絡を入れます。しかし、実朝の死を聞いた義村は落涙し、長尾定景に命じて公暁の首を斬ってしまいます。(『吾妻鏡』) 【鶴岡…
治承4年(1180)、石橋山の大敗で房州に逃れた頼朝は勢力を整えて鎌倉に入りました。その後文治5年(1189)には、奥州征伐へ向かいます。この時、頼朝は浅草付近を通過したというので、複数の伝説が点在しています。なお、『吾妻鏡』治承5年(1181)7月条に…
源義仲は、現在の木曽町日義付近で成長したとされ、周辺には数多くの興味深い伝説が存在しています。 【巴淵】 義仲に従ったという巴は、『源平盛衰記』では中原兼遠の娘、その他の『平家物語』では便女(下女)と記されています。地元の伝説では、巴は木曽…
『古事記』や『日本書紀』には、景行天皇の御代に日本武尊が東国征討へ向かう際、伊勢神宮に寄り、草薙剣(後の三種神器の一つ)を授けられたという逸話があります。 【居醒の清水】 日本武尊は伊吹山(滋賀県と岐阜県の県境)征伐に向かいますが、山神に返…
全国に点在する平家落人伝説地の一つに湯西川温泉(栃木県日光市)があります。平家の忠臣肥後守貞能(重盛の子忠房とも、平高房とも)が、重盛の妹たちを連れて、この地に隠棲したと伝わっています(複数の説あり)。 【落人の里】 落人達は、しばらく鶏頂…
寿永3年(1184)4月、清水冠者義高が頼朝の命令で殺害されたことにより、許嫁であった頼朝と政子の長女大姫は薄幸の生涯を送ることになります。 【岩殿寺(岩殿観音堂)】 文治3年(1187)2月に大姫、建久3年(1192)3月に頼朝、建久4年(1193)8月に政子、…
源氏軍の大手の大将軍として平家軍と戦った蒲冠者範頼は、搦め手の大将軍である弟義経の活躍に押されて目立たない人物です。また、兼好法師の『徒然草』に「蒲冠者のことはよくは知らざりけるにや、多くのことどもをしるしもらせり」とあるように、『平家物…
治承4年(1180)8月、石橋山で惨敗した頼朝は船で房総半島に渡り、千葉一族を味方に付けて再起しました。安房国から上総国を経て下総国に入ります(『吾妻鏡』)。そのため、下総国府(市川市国府台)周辺には頼朝伝説が点在しています。 【白旗天神社】 市…
志田三郎先生義広(信太義憲などとも)は源為義の三男で、常陸国信太荘(稲敷市)に居住していました。『平家物語』ではあまり目立たない人物ですが、甥の頼朝とは犬猿の仲です。 【明王院(赤不動)】 寿永2年(1183年)2月、義広は頼朝軍と野木宮(栃木県…
誰もがよく知る武蔵坊弁慶は、意外にも『平家物語』にはほとんど登場しません。その生涯は『義経記』や御伽草子『弁慶物語』に詳しく記されています。熊野別当の子として、超人的な能力を持って生まれた鬼若(弁慶の幼名)は、比叡山に預けられました。しか…
元久2年(1205)6月22日、由比ヶ浜で畠山重保が騙し討ちされます(第60回「鎌倉市・御家人その後」参照)。父重忠は、居住地の菅谷館(埼玉県比企郡嵐山町)から鎌倉に向かう途中、二俣川(横浜市旭区)で北条義時軍に襲撃されました。 【二股川古戦場・さかさ…
源平合戦を勝ち抜き、鎌倉幕府を開いた頼朝を支えたのが御家人たちです。しかし、頼朝の死後、梶原氏、和田氏などの有力御家人達が次々に滅ぼされたことが『吾妻鏡』に記されています。 【比企能員一族の墓(妙本寺)】 比企氏は、頼朝の乳母である比企尼の…
治承4年(1180)5月、高倉宮以仁王と源頼政が打倒平家を志しますが、敢えない最期を遂げます。覚一本『平家物語』では、平家が頼政の首を回収出来ず、史実においては以仁王の死が不明瞭なことから、その後の二人の伝説が全国各地に広がります。 【大内宿】 …
『平家物語』の有名な逸話の一つに、加賀篠原の戦い(寿永2年=1183)で白髪を墨で染めて討死する斎藤実盛の話があります。実盛は北陸の生まれでしたが、源氏の家人として東国に館を構えていました。 【長井斎藤別当実盛館跡】 『平家物語』に「長井斎藤別当…
『平家物語』には、しばしば怨霊への恐れが記されます。たとえば、巻三「赦文」では、中宮徳子の難産は、讃岐院(崇徳院)や悪左府藤原頼長、早良親王、井上内親王らの死霊や、鬼界ヶ島の流人達の生霊が原因と考えられたとしています。 【御霊神社(上御霊神…
元暦2年(1185)、壇の浦の合戦で平家が滅びた後、捕虜として京と鎌倉を往復したのが、一の谷で生け捕られた平重衡と、壇の浦で生け捕られた平宗盛父子です。 【小夜の中山】 『平家物語』では、寿永3年(1183)に重衡が鎌倉へ護送されるまでの道程を、地名…
頼朝挙兵時から、頼朝に従った武士達の中に三浦一族がいます。三浦義明をはじめ、和田義盛、朝比奈三郎、石田為久など、有名な人物が数多く存在します。語り本系の『平家物語』には、ほとんど記されていませんが、読み本系諸本や『吾妻鏡』には、頼朝の挙兵…
平清盛によって平家は栄華を極めましたが、その礎を築いたのは父忠盛です。覚一本『平家物語』では、巻一「殿上闇討」にその一端が記されます。 【鳥羽天皇陵(安樂壽院陵)】 地下(じげ)平氏であった忠盛は、鳥羽院の御願寺・得長寿院を建立した功績によ…
源平合戦には諸国の源氏が参加しましたが、その一つが足利氏です。足利氏の祖は八幡太郎義家の子義国で、その子に義康や新田氏の祖となる義重がいます。 【足利氏宅跡(鑁阿寺)】 義康の子義兼は栃木県足利市を本拠地とし、現在の鑁阿寺に居館があったとさ…
『平家物語』諸本は、「灌頂巻」で終わるものと、六代斬られ(断絶平家)で終わるものとに大きく分けられますが、延慶本はさらに頼朝讃辞を付け加えて終わります。 【源頼朝像(源氏山公園)】 文治5年(1189年)、奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、軍事面での全…
『平家物語』の諸本は、読み本系と語り本系に分類できますが、語り本系はさらに「灌頂巻」の有無によって一方系と八坂系に分類されます。一方系には巻12の後に、建礼門院徳子の後日談をまとめた「灌頂巻」があります。 【長楽寺】 壇の浦合戦後、建礼門院は…
元暦2年(1185)、北条時政に連行された六代御前は駿河国千本松原で斬首されそうになりますが、文覚が頼朝を説得したことで処刑が中止になります。六代は京へ戻り、文覚の弟子となって、後に出家します。 【文覚上人屋敷跡】 文覚は、配流先の伊豆で頼朝と出…
元暦2年(1185)の壇の浦合戦後、頼朝は都に北条時政を派遣して、叔父の義憲・行家を粛清すると同時に、平家の血を引く男子を探し出し、次々と殺害していきます。そして、平家の嫡流・維盛の子である六代御前も発見されてしまいます。 【神護寺楼門】 維盛の…
元暦2年(1185)、頼朝との確執により、北陸へ逃れたとされる義経は、その後、奥州平泉の藤原秀衡を頼ります。その間に頼朝は、後白河法皇に要請して、義経逮捕を名目に、全国に守護・地頭を設置することに成功します。 【高館義経堂】 文治3年(1187)10月…
文治元年(1185)、義経は、腰越から都へ戻る途中、護送していた平宗盛父子を近江国で処刑します。その後、頼朝から義経暗殺を命じられた土佐房昌俊は、六条堀川の義経の宿所を襲撃しますが、失敗して義経に斬首されます。11月、義経は船で九州へ逃れようと…
平家滅亡の後、次々と近親者を粛清した頼朝は、着々と鎌倉幕府の体制を整えていました。『平家物語』からは外れますが、『吾妻鏡』には、建久3年(1192)に征夷大将軍となった頼朝が、その2年後の閏8月1日に、三浦の津に山荘を建てるという記事があります。…
平家滅亡後、義経を都へ追い返した頼朝は、今度は義経を暗殺しようとします。義経は奥州へ逃亡しますが、伯父の行家、義憲と次々に親族を排除していきます。もう一人の弟範頼も例外ではありませんでした。蒲冠者範頼は、蒲御厨(静岡県)出身とされ、『平家…
元暦2年(1185)3月24日、壇浦の合戦で平家の総大将宗盛と子息清宗は捕虜となり、義経は二人を鎌倉へ連行します。ところが頼朝は、捕虜を受け取り、義経は腰越に留めて鎌倉へ入れませんでした。梶原景時の讒言を聞き入れていたからです。 【満福寺】 覚一本…
元暦2年(1185)3月24日、平家一門と供に壇の浦に沈んだ安徳天皇ですが、実は密かに落ち延びた、などの伝説が日本各地に点在しています。 【水天宮】 久留米市にある水天宮は、全国にある水天宮の総本山で、天之御中主神・安徳天皇・平徳子・二位尼時子を祭…