源平の人々に出会う旅 第71回「鎌倉市・実朝周辺」

 建保7年(1219)1月27日、鎌倉三代将軍実朝が鶴岡八幡宮で甥の公暁に殺害されました。公暁は実朝の首を持って逃走し、三浦義村に連絡を入れます。しかし、実朝の死を聞いた義村は落涙し、長尾定景に命じて公暁の首を斬ってしまいます。(『吾妻鏡』)

鶴岡八幡宮と大銀杏】
 実朝は、右大臣就任による拝賀を終えて退出するところに、石段の脇から現れた公暁に襲われます。石段脇にある大銀杏(2010年に倒伏)に公暁が隠れていたという伝説もあります。この時、北条義時の体調不良によって代役を務めた源仲章も殺害されてしまいます。そのため、義時が真犯人であるとする説もありますが、『愚管抄』によれば、義時は実朝の指示で中門に控えていたのであり、黒幕説には疑問が残ります。

 

【法華堂跡(頼朝墓所)】
 法華堂は、頼朝の持仏堂のあった場所で、頼朝の亡骸を葬った場所です。建暦3年(1213)5月2日の和田合戦の時、朝夷名三郎義秀(和田義盛の子)が御所に火をかけた際に、実朝は法華堂へ避難しています。また、貞応3年(1224)6月13日に死去した北条義時は、18日に法華堂の東山上に葬られます。

 

和賀江島
 義時の子泰時は、実朝暗殺時、随兵として参列していました。義村が公暁の首を義時の許に届けた際には、「公暁の顔を知らないので、なお疑いがある」と語っており、公暁とは面識がなかったようです。泰時は、後に三代執権となり、和賀江島の築港に尽力しています。和賀江島は、貞永元年(1232)7月、勧進聖人往阿弥陀仏の申請によって、船舶の事故を防ぐために着工された人工の島です。干潮時に、わずかにその姿を現します。

 

〈交通〉
 JR横須賀線鎌倉駅
     (伊藤悦子)