番外編:太平記の人々に出会う旅② 第87回「鎌倉市・稲村ヶ崎の奇跡」

 後醍醐天皇に従って、実質的に鎌倉幕府を滅亡させたのは新田義貞です。義貞は上野国新田庄出身の河内源氏で、頼朝や義仲と同じく八幡太郎義家の子孫になります。

稲村ヶ崎
 元弘三年(1333)、義貞は小手指河原(所沢市)・分倍河原府中市)で幕府軍を破り、鎌倉へ向かいます。しかし、三方を山、一方を海で守られた鎌倉に攻め入るのは困難です。義貞は極楽寺の切り通しに向かいますが、その手前にあるのが稲村ヶ崎です。


稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地】
 稲村ヶ崎の狭い砂浜の道は障害物で塞がれており、海上には敵の船が待ち構えています。義貞は海に向かって龍神に祈り、黄金作りの太刀を海中に投げ入れると、見る見る潮が引いて砂浜が広がったということです。(巻三「稲村崎成干潟事」)


稲村ヶ崎から江ノ島遠望】
 『保暦間記』には、稲村ヶ崎と頼朝の死にまつわる記事があります。『吾妻鏡』は、頼朝が相模川の橋供養の帰途に落馬し間もなく死去したと記していますが、『保暦間記』では、その帰途、八的が原で叔父の信太義広や行家、弟義経らの霊が出現し、稲村ヶ崎では安徳天皇が現れて、それ以降病気となり、翌年死去したとしています。


〈交通〉
江ノ島電鉄稲村ヶ崎駅
      (伊藤悦子)