足利義兼は室町幕府を開いた足利尊氏の先祖です。父は義康、妻は北条時政の娘で、兄弟には矢田義清がいます。覚一本『平家物語』には、藤戸合戦(元暦元年(1184))で源範頼軍の中にその名が見え、『吾妻鏡』では、頼朝の奥州合戦(文治五年(1189))に参加したことなどが記されています。
【鑁阿寺(ばんなじ)多宝塔と義兼手植えの大銀杏】
鑁阿寺は、建久七年(1197)に義兼が創建したとされる足利氏の氏寺です。多宝塔の傍らには、義兼のお手植えと伝わる大銀杏(天然記念物)があります。
【足利学校跡】
日本で最も古い学校とされる足利学校は、一説には義兼が創設したといわれています。その後衰退しますが、室町時代に関東管領上杉憲実の尽力によって復興しました。
【奥の院通りの鶉像】
義兼は、樺崎寺(現在の樺崎八幡宮)を建立し、晩年をここで過ごしたといわれています。樺崎寺は奥の院ともいい、鑁阿寺から樺崎寺に続く道は奥の院通りと呼ばれます。また、樺崎寺には義兼にまつわる以下のような興味深い話が伝えられています。
ある夜、義兼の枕元に少女が現れます。これは義兼が捕まえた鶉の化身であり、「毎日歌うのは親と引き裂かれて泣いているからだ」と訴えてきます。そこで義兼は「この里ではもう鳴くな」と諭して鶉を放つと、それ以来、樺崎では鶉の鳴き声が聞こえなくなり、「鶉の鳴かぬ里」といわれるようになったということです。