平治元年(1159)、源氏と平家の明暗を分ける平治の乱が起こりました。平重盛軍に敗れて逃走した源義朝は尾張国で討たれ、まだ13歳だった頼朝は囚われて伊豆国に流されてしまいます。
【光照寺(逗子市)】
この時、悪源太義平(義朝の長男)は逃げ延びていましたが、翌年に捕らえられて斬首されます。逗子の光照寺(真言宗)は、義平の供養のために建立されたという伝承があるようです。なお北鎌倉にある光照寺は、一遍上人ゆかりの時宗の寺です。
【源義朝・鎌田政家の墓(勝長寿院跡)】
元暦2年(1185)、壇の浦で平家を滅ぼした頼朝は、父義朝とその腹心鎌田兵衛政家(正清とも)の首を捜し出し、勝長寿院を建立して菩提を弔ったことが『平家物語』や『吾妻鏡』に記されています。
【六角の井】
頼朝の叔父鎮西八郎為朝は弓の名手として知られています。保元の乱(1156)で兄義朝と敵対し、敗北して伊豆大島に流されました。鎌倉十井の一つに数えられる六角の井は、別名を矢の根井戸といい、為朝が伊豆大島から射た矢がこの井戸に落ちて、やじりが残ったという伝承があります。今は危険防止のためシートで覆われています。