山城便り・甘唐辛子篇

伏見の錦織勤さんは、庭で少しだが野菜を育てているとのことで、蕗(野菜か?)、大蒜など八百屋で買うほどではないが好物、といったものを主に植えているらしい。

伏見甘長唐辛子

【庭の「万願寺とうがらし」と「伏見甘長とうがらし」を収穫しました。大きい方が万願寺です。2本ずつ植えています。収穫は4回目ですが、4~5日に一回、写真に写っているぐらいは採れます。
ニガウリも植えています。こちらはまだやっと雄花が咲き始めた段階なので、収穫はだいぶ先になると思いますが、これも楽しみです。】

万願寺唐辛子

スーパーなどで「京野菜」と銘打って売っているものは、えらく高いことが多いのですが、近年、万願寺唐辛子は数本を袋詰めにして、スーパーでも手頃な値段で出すようになりました。ただべらぼうに大きいので、破裂しないように切り目を入れて焼き、鰹節醤油をさっとかけて(勿論、酒肴です)食べることが多かったのですが、自作すればこのくらいの大きさなのか!

錦織家ではじゃこと一緒に煮て食べることが多いそうですが、我が家ではちりめんじゃこと共に胡麻油で炒め、塩で味付けします。麦酒に合う。獅子唐辛子は肉と炒めてもよし、茄子などの夏野菜と甘味噌味で炒めてもいいのですが、甘唐辛子の類はなるべく調味料をシンプルにした方が美味しいようです。

赤や黄色のパプリカは、種子を出して縦八つ割りにし、冷凍庫でかるく凍らせて、スティック感覚でマヨネーズをつけて食べると、美味しい。ホームパーティでサラダの彩りにするのもいいでしょう。人体に有害なほど辛い唐辛子を物好きで商品化するのは、唐辛子に失礼じゃないかしら、本来美味しい野菜なんだから。

あわトラ

米国大統領選をめぐっては、あまりに事態の展開が急すぎて、あれよあれよです。

高齢と健康への不安をあたかも自ら証明したかのような現職が、刻々評判を落としているところへ、動機もよく分からないままの銃弾がもたらした、あわやという危機を、しかし思い切り自らのキャリアを活かす機会に作り変えた元職。一気に同情も義憤も威勢も独占したかに見え、同時に自主隔離に入った現職は、ますます不利に見えました。

米国留学経験のある友人は、日本時間午前3時の事件を朝6時に知って吃驚した、とメールを寄越しました。彼女は彼国の言葉を意味だけでなく品格や雰囲気も(母国語同様に)感じることができるので、受諾演説は如何だった?と尋ねたところ、

【トランプのあの声、あの表情を視るのは忌避したかったので動画を避け、受諾演説のテキストを探して読み、途中からいつものトランプ節になったことを確認しました。彼らには「事実」は価値のあるものではないのでしょう。ずるい外国(同盟国)のせいで、自分たちが損をしているという被害者意識満杯です。】

しかしコロナは、現職にとって進退の決断と準備をするための時間稼ぎになったかもしれません。副大統領が後継候補に決まった途端、危機感は団結力と期待に変わりました。まこと禍福はあざなえる縄です。初めての女性、非白人系、対立する選択肢として十分。そして彼女は迷いを見せず、十二分にパワフルで陽気でもある。

彼に確定しそうな事態は「まじトラ」と呼ばれていたそうですが、あわやの事態、あわトラは今後どう転がっていくのでしょうか。「我が国は米国とともにある」と総理が議会で演説した東海の小国、余るほどの軍事予算と人手不足の軍隊、戦争放棄憲法はこじつけ解釈が重ねられ、この次来るのは、兵士の確保。あわや、は他人事ではありません。

大和便り・今年の初かき氷篇

奈良の高木浩明さんからかき氷の写真が来ました。元鴻池邸を移築した、近所のカフェだそうです。思わず白い氷部分に顔ごと突っ込みたい!と思うような、この暑さ。

奈良の宇治ミルク金時

高齢者は不要不急の外出はするな、と言われる猛暑日ですが、送金その他いくつもの所用があって、片日陰のある内に、と出かけようとしたら呼び止められ、マンションの管理組合のことで長話。承っているうちにどんどん日は昇る。ゆうちょ銀行とコンビニと美容院と・・・結局2つばかり用を忘れて帰宅、シャワーを浴びたら雷雨が来ました。

一息入れてメールを読み直しました。

要法寺では、慶長10年に続いて15年にも太平記と沙石集が刊行されたようです。要法寺で古活字版の出版を主導して来た日性上人が、慶長15年に亡くなりますが、その後(もう要法寺とは限りませんが)、元和2年と4年にも太平記と沙石集の古活字版が刊行されます。

太平記と沙石集、この2つが相次いで古活字版で刊行されるのは単なる偶然ではないと思いますが、その理由をまだ説明できる材料がなく、気になります(高木浩明)】。

じつは私も、昨日のブログを書きながら、太平記と沙石集、同じ部類の古典と認識されていたんだなと思ったのです。どちらも(日蓮宗の寺院で)知の事典として重用されたのではないか、と。何だか似た雰囲気の2作品ではありませんか。

類書と呼ばれる、一種の百科事典が重宝された時代。しかし源平盛衰記でなく太平記だったところが、日蓮宗か。では沙石集は日蓮宗の思想とどういう親和性があるのかー川越に沙石集の専門家がいたっけ、訊いてみるか。しかしこの暑さの中、そんな質問をしたら嫌われるかも。

古活字探偵19

高木浩明さんの「古活字探偵事件帖19」(「日本古書通信」1140号)を読みました。「『沙石集』12行古活字本は要法寺版か」と題して、表紙裏に使われた刷り反古を手がかりに、太平記太平記鈔・音義(太平記の注釈書)と沙石集とが、ほぼ同じ時期、同じ制作環境(要法寺)で、似たような制作過程で刊行されたのではないかと推定しています。本連載も回を重ね、古活字版に関する多様な事例を述べてきたので、今回はかなり複雑な話になっていますが、要法寺太平記や沙石集の古活字版が何度も制作された経緯を、表紙裏の剥がれた部分に注目して推理していくところは、まさに探偵の腕の見せ所。

本誌には塩村耕さんが「名古屋の古本商、海野小次郎と岩瀬弥助」と題して、岩瀬文庫に保管されていた大正年間の書簡を紹介しています。『好色破邪顕正』の話題から始まるので(塩村さんは元来、西鶴の専門家)、稀覯書とされるこの作品名をどうして私が知っているんだろう、文学史を暗記した時にでも出てきたっけ、と思いながら読み進めるうち、古書商から岩瀬弥助に当てた大正8年12月19日の葉書に、「源平盛衰記は百円」とあるのが眼に留まりました。岩瀬文庫には1度調査に行ったことがあるのは覚えているのですが、何を見たのか急には思い出せません。この盛衰記だったのかなあ。

田坂憲二さんの「吉井勇の読書生活19」に、泉鏡花の「海城発電」(明治29年)が戦時下の全集には収められず、現代日本文学全集(筑摩書房)の増巻分に入った経緯が述べられていて、そうとは知らずにかつて読んだ記憶があり、思想統制の時代を通ってきた作品だったんだ、と知りました。

何も知らずにただ歩いてきた自分の足跡がついた道を、周囲の風景と共に、改めて認識した次第です。

水戸便り・方言篇

水戸在住の39年前のゼミ生から、写メールが来ました。もう60代です。

宇宙帰りの朝顔

宇宙飛行士の山崎直子さんが持ち帰ってきた種子から育てた朝顔だそうです。一人娘を育てる過程で、宇宙センターやボーイスカウトや、自衛隊など、それまで経験しなかった方面に参加し、共に楽しんできたようです。今春、娘は自治医大に合格して6年間の寮生活に入り、休日に面会に行ったりはするものの、子離れ過程が始まりました。

【娘は希望通りの生活で、とても楽しいようです。勉強は(覚悟の上とは言え)、かなり大変そうです。

学生が全国各地から来ているせいか、 既に彼女の話すイントネーションが変わっていました。真似出来ません(各地の言葉が混じっていて、茨城県民からは、故郷を捨てたか!と言われそうです)。】

イントネーションは無意識の裡に身につくので、本人は自覚していなくても影響されやすい。聴く方からは、西(関西・九州)か東北かはすぐ分かりますが、ミックスとなるとややこしいですね。一方、茨城県民はシとス、イとエが入れ替わる発音が強烈で、しかも大阪人同様、一種の誇りを持っているらしい。標準語仕様の東京人は、こてこての茨城弁で主張されると押されまくりです。

鳥取勤務の頃、地元の言葉は語尾が長く伸び、白黒がぼかされるのに、標準語で話す私は、教授会の発言でも結論が明確で、ごまかしようがないことに気づきました。暫く経つと、学生への叱言は鳥取弁(もどき)で言うようになりました。衝撃が柔らかいからです。後に卒業生から、来たばっかりの先生はちゃきちゃきの東京弁だったのに、いつの間にかあやしげな鳥取弁になって・・・と嘆かれました。

暑さで水難事故が増えている、と報じられています。夕焼に染まる敦賀の浜が画面に出て、あんな穏やかな海なのに、と思いました。曲線が緩やかな、遠浅の波打ち際です。私は幼年時代茅ヶ崎の海辺で暮らしたので、海は懐かしく、しかし怖いものだという感覚が染みついています。泳げるようになる前に闘病生活に入った(父が浮輪で泳ぎを教えようとした夏が終わってすぐ、発病。緑色の海水に浸かる感覚を、今でも覚えています)ので、泳げないからよけいにそう感じるのかも知れません。

相模湾は波が荒く、波打ち際からすぐ深くなり、毎年のように子供が溺れました。青年たちは沖の烏帽子岩進駐軍が射撃演習の標的にしたので、昔より小さくなったという)まで泳いで、栄螺を獲りに行ったりしましたし、日曜日には地引網が曳かれることもありましたが、未だ海水浴場の設備も整わず、子供は泳いではいけないと言われていました。

それでも波打ち際に足を浸して、水平線や烏帽子岩を眺めるのは愉しいことでした。引き波の力が強くて、足元の砂がどんどん崩れたり、思いがけず大波が押し寄せたりして、渚に立っているだけでも結構スリリングでした。普段は緑色のアオサが打ち上げられているのに、嵐の翌朝は茶色や紅色の海藻が打ち上げられていて、それらが深い海底に生える種類なのだと知りました。従姉たちは海鬼灯(貝類の卵です)を貰って来て、梅酢で染めたりしました。陸の鬼灯よりも鳴らすのが難しいのです。

水平線には大きな入道雲が立ちました。戦後植林された松の苗が未だ20cmくらいで、砂地は弘法麦や浜栲、浜苦菜、浜昼顔たちが占領し、磁石を曳いて歩くと、砂鉄が何かの結晶のように綺麗に付着しました。波の繰り返しは終日見ていても飽きません。大人になるまで、頭上から襲いかかる大波の夢を見て、怯えることもありました。

梅雨明け10日

朝食の卓に就いてオリーブオイルの瓶の蓋を開けた途端、爆発しました。いや、口元から一気に黄金色の油が溢れ出て止まりません。慌てましたが、冷蔵庫から出してちょっとの間に瓶の中の空気が膨張したようです。

朝から暑い!ベランダで干し物竿を拭く間だけで汗びっしょりです。今夏の暑さには日々草でさえ苦しがっていて、菊はほぼ全滅。元気なのは菫の葉と素馨花の蔓です。春先に2,3輪しか咲かなかった菫は、今になってハート型の濃緑の葉を盛んに茂らせていて、それはそれで観賞に堪えます。切り花を買ってきても保たないので、硝子瓶に石榴や梔子の小枝と菫の葉を挿し、瓶の水を眺めることにしています。

梅雨明け10日、という言い習わしがあるそうで、梅雨が明けてからの10日間が最も暑いという。確かにその後は次第に日が短くなるので、暑さも峠を越えることになります。それまで乗り切れるか。

昼間は冷房を入れず、金太郎ファッションで、風の通る所へ椅子を置いて、軽めの読書で夕方を待つのですが、今日は入ってくる風が熱風。最近は肌感覚でおよその気温が分かるようになりました。32度まではしのげる、36度を越えると(自分が一番冷たいわけで)、そこら中何を触っても温かい。今日は35度と36度の間くらい、と思ったらどんぴしゃでした(最高気温35.8度)。身体の出来上がる子供の頃、何年かに1回ある高温が32度だったので、それが耐熱温度になったのでしょう。初めて気温36度を体験したのは、鳥取勤務の夏でした。あの当時はぴっちりストッキングを穿いて出勤し、冷房は印刷室にしかありませんでした。もうあんな生活はできません。

夜に入って大雷雨。これでコンクリートの蓄熱が緩和されることを期待しましょう。