豊後便り・天南星篇

別府で悠々老後を楽しむ友人から、天気が好いのでフェリーで宇和島へ行った、というメールが来ました。山野草好きなので、武蔵鐙と踊り子草の写真添付でした。

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武蔵鐙

宇和島城は小さいけれど奇麗なお城でした。土塁に「武蔵鐙」の大きな株がたくさんあり、花をつけています。関東では、同じ「テンナンショウ属」でも「マムシグサ」を山野でよく見かけますが、「ムサシアブミ」は見たことがありませんでした。

ムサシアブミは複葉が3枚、艶のある大きな葉が特徴で、すぐ分かります。仏炎苞は丈が低く、葉の下に隠れています。】

そして私がブログに書いたカラスビシャクについて、詳しい説明がありました。

カラスビシャクサトイモ科ハンゲ属に属する植物で、テンナンショウ属ではありません。日当たりのよい畑地などに生える雑草で、テンナンショウ属に比べると小さめです。他方、テンナンショウ属の植物は薄暗い林床に生育します。草丈は50~70センチくらいで、比較的大きめです。テンナンショウは地域差が非常に大きく、分類が難しいとされています。テンナンショウマムシグサは仏炎苞が葉よりも高く伸び、まるでマムシが首を伸ばしているように見えるところから名がついたらしい。ウラシマソウカラスビシャクに一番似ていますが、1本の茎の先に複葉を一つだけつけるのが特徴です。葉は長楕円形で11~17枚の小葉です。仏炎苞の付属体が、苞の中から糸のように長く伸びて垂れ下がる様が特徴的で、浦島太郎が釣り糸を垂れている姿に見立てて名が付けられたそうです。以上は全て有毒で、ただし多くが漢方薬として使用される有用植物でもあります。】

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宇和島の踊り子草

踊り子草は群生すると、野草とは思えないほど華やかです。36年前、鳥取へ赴任して初めて城址を案内された時、崩れかけた土の階段脇に密生しているのを見ましたが、今はもう整備されすぎて、生えなくなったかもしれません。

歌集『鉛筆』

菅野節子さんの歌集『鉛筆』(喜怒哀楽書房)を読みました。菅野さんとは全く面識がありません。あとがきによれば1950年生、歌誌「玉ゆら」の同人で、高校教諭を離職後、塾講師などを勤め、近年は、歌人三ヶ島葭子の娘倉方みなみに興味を持って論じているそうです。本書は204頁、自選歌493首を収めており、自費出版でしょうが、5本の鉛筆の絵をあしらった装幀もすっきりしています。

私は実作者でも短歌評論の専門家でもないので、日常詠を中心とする個人歌集を批評するには不向きですが、ぱらぱらと飛ばし読みを始めて、おや、と思い、最初からめくり直しました。韻文だな、と思ったからです。がつんと来るものがある。

マチュアの日常詠を読む時、しばしば疑問に思うのは、何故短歌なんだろう(さらに何故、文語体なんだろう)ということです。散文で書き留める31字とどこが違うのか。どこが違うと主張したいのか。本書のそこここに発見したのは、主語述語のある散文で説明される日常ではなく、自分がいま掴んで、差し出したいものはこれだ、とばかりに、ぎゅっと据えて在る光景でした。散文的な作も混じってはいますが、例えばこんな歌ー

マーブルの瓶に挿したる竜胆はつぼみのままに枯色となる

ゐたのだらう心やさしき弱法師は貴賤の人にぶつかりながら(能「弱法師」)

白蓮は此の面彼の面に浮かびゐて五月の風を取り込まむとす

身のたけが一寸ばかりのエンジェルはガラスの羽根を一まい落とす

秋の日はここにきはまるしづしづとウェッジウッドを染めゆくくれなゐ

「玉ゆら」最新号にはこんな作もありました。

残り糸編みては花になしてゆくひとりの時間わたしは巣守

女院と芸能

辻浩和さんの「院政期の女性と文化・芸能」(京都女子大学宗教・文化研究所「研究紀要」34号)を読みました。講演録でしょうか、手短かに、分かりやすく述べています。

帝王としての院には諸道を実践、興隆することが期待されており、すると臣下は各人の芸を活かして昇進・活躍する機会を得ることができ、貴族や官人の家業を保護することにつながった、臣下の側から言えば、芸能が主従関係を築くきっかけとなり、貴族社会で生き抜く武器となった、また彼らの人脈を通して遊女のような下層階級や地方の文化が中央に吸い上げられていく、と指摘しています。

院政期以降は女院内親王が文化的サロンの主宰者になり、そこに仕える女房たち(女房も女系の家業だった)も文化活動に関わりました。しかし院自身は新興芸能を含めて実践に関わったが、女院はその紹介者、場の提供者に留まったのではないか、というのが結論です(読者としては、参考文献の注記をつけて欲しかったと思います)。

後白河院の今様好きは、待賢門院からの影響であった(小川寿子)とされていることも知って、不勉強な私は改めて、女院文化に注目しなければいけないなと思いました。例えば『風葉和歌集』が編まれた大宮院のサロンで、『平家物語』が次第に「物語化」していく、というようなことはなかっただろうか、と夢想してみるのです。

辻さんは、元木泰雄編『日本中世の政治と制度』(吉川弘文館 2020)にも「内教坊小考」という論文を書いています。内教坊は11世紀以降13世紀にかけて、本来のありようから乖離し、坊家奏・坊家図に虚構が含まれることもあり、倉庫や仏事の場にもなって、13世紀後半からは明らかな変貌が見受けられる、と論じています。形式上は近世まで存続するものの、内教坊は、鎌倉後期には有名無実化したと考えてよさそうです。

花の便り・その2

辻英子さんから、60年間共に暮らしている君子蘭です、というメールが来ました(写真の容量が大きいので少し削りました)。なるほど大きな、見事な株です。

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辻家の君子蘭

かつて伊豆大島へ観光旅行に行ったら、君子蘭の1年目の苗がお土産に配られました。3年くらいは我が家で育てましたが、一向に大きくならず、鳥取赴任の際に近所の知人に引き取って貰いました。花が咲くまでにはかなりの年月がかかるようです。

辻家にはすでに浜木綿も咲いているそうです。花だけ見ると、幽玄ですね。

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辻家の浜木綿

子供の頃、家族が庭先の花壇に浜木綿の球根を植えました。アマリリスくらいの心算だったのでしょうが、芽が出て、あれよあれよと大きくなり、花が咲く頃には巨大な葉の塊が花壇の中央に鎮座していました。しかも厚ぼったい葉は裂けたり捻れたりして、周囲に他の草花は寄り添えない風景になります。後年、熊野灘を見渡す砂浜に自生しているのを見て一遍に納得、これはやはり海浜植物なのだと思いました。

我が家では、今年は胡蝶蘭が咲いてくれませんでした。昨秋、古い根を切り詰めたのがいけなかったらしい。その代わり、10年近く葉を広げるだけだった紫蘭が花をつけました。早世した弟の家には見事に咲いていたので、羨ましかったのです。水をやりながら、来年からはずっと咲いてね、と頼んでいます。

3月が暖かかったので、菊が伸びすぎました。挿し芽しないといけないでしょう。スパティフォーラムに早々と花が咲き、実生の白山吹もぐんぐん伸びてきました。昨年は両者とも元気がなく、どちらかを抜き捨てようかと考えたのですが、とりあえず鉢を分けておいたら復活したのです。こうして植木たちそれぞれの生命力を見せられると、つい、秋までには、来春には・・・などと我が身の無常迅速を忘れてしまう主がいます。

マニュアル勤務

福岡の親戚が亡くなって明日が通夜、との知らせが来ました。慌てて弔電を打とうとしましたが、115は今は24時間営業ではないらしい。翌朝、営業開始時間から電話をかけ続けました。まず「コロナ対策のためオペレーターはマスク着用で対応しております(えっ、見えないけど)。お客様にはご迷惑をおかけ致しますが(何の迷惑?)」云々の自動音声、これだけですでに1分以上。続いて、いま混み合っている、お急ぎなら(急がないのに電報を打つか!)ネット経由でクレジット払いにせよ、という自動音声が繰り返され、ワンセット3分半。2時間近く経ってもつながりません。もしや何か大事故でも起こって、日本中から弔電が殺到してるのだろうか、と思ってしまいました。

今どきの電報は、文案の組み合わせや台紙のデザインなど通話して確かめたいので、すべてネット経由で用が足りる訳ではない。NTTではネット利用を進めるために、コールにすぐには出るな、と指示しているのでは、と疑っています。

近所のクリーニング屋の老夫婦が引退して、チェーン店になりました。小さなほつれや変色も隅々まで「御了解済み」の念を押され、それは仕方がないとしても、気分的には一々ケチをつけられた感じになります。引き取りにも時間がかかり、コロナ対策のため店に入れない客が、狭い歩道に行列を作る。仕上がり品の番号を一々、客に伝票と引き合わせさせるからです。とうとう堪りかねて、私は品物を見れば一目で判る、番号を見ても判らない、引き合わせはあなたの仕事、と説教してしまいました。

熟練しなくても務まるようにマニュアルができ、逆にマニュアルに使われる職業人が増えました。それはそちらの都合。客までもがマニュアルに時間や手間を取られるいわれはない。何のためのマニュアルなのか、相手側からも考えながら勤務して欲しい。

平曲平家物語問答

鈴木孝庸さんが藤田郁子さんの疑問に答えた「平曲平家物語問答」(「人文科学研究」148輯)を読みました。鈴木さんは、譜本を見て習う津軽系の平家語り(盲人が口移しに習う当道系の平家語りに対して、晴眼者がアマチュアとして語ることが可能な平家語り)を、実際に語る研究者です。2015年11月から2019年3月まで、66回の公演を重ね、全巻200句を語る(「一部平家」と呼ぶ)大事業を完遂しました。

聴衆が1桁しかいない回もしばしばだったようですが、かつての教え子でもある藤田さんは、この公演を聴いた感想や疑問点を詳しくメモし続け、鈴木さんに渡したらしい。藤田さんはこの公演以前は殆ど平家語りに触れたことはなかったそうですが、近世演劇や邦楽には素養があったようで、小学校教諭として古典芸能の享受・継承にも向き合ってきたのでしょう。享受者側からの、思いがけない、また鋭い指摘に、何とか答えようとする問答から、芸能としての平家物語が浮かび上がってくる結果になっています。

質問は例えばこんな点ですー①浄瑠璃の三味線と比べて、平家琵琶には演奏技法を誇示するような見せ場はないのか?②清元では地声で高音を出すが、声変わり前から訓練するのが本来で、平家語りも同様か?③晴眼者は暗譜・暗誦でなく譜本を見るのが建前か?④物語内の人物ごとに声を変えたりはしないのか?⑤テキストを見ながら聴くと、演奏全体の雰囲気を味わうことが妨げられるのではないか?⑥演奏者鈴木が最も好きな句、最も多く演奏した句は?ときには手厳しい批評も混じっています。

回答は鈴木さんのこれまでの研究に基づいていますが、芸能であるゆえに意図的に一部の詞章を替える例、何故譜本を見ながら語るのか、語られる平家物語では登場人物は語り手の支配下にある、など極めて重要な視点が、問答を通じて引き出されています。

豊後の春

豊後国で老後を楽しんでいる友人から、津久見河津桜の写真を送ってきたので、土地の説明をつけて欲しいと言ったところ、よく知らないという。しかし遠い記憶の底にある地名だなと思って調べたら、紀州蜜柑の原木がある所でした。

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津久見河津桜

昭和41年の3月末から4月初めにかけて、学部の同級生3人で九州一周旅行に出かけました。新学期からは卒論と就活に逐われることが判っていたので、最後の春休みでした。

春の花々の彩り豊かな、そして個性の違う3人組の楽しい珍道中でした。初日は父の実家に泊まったのですが、祖母が「お前が初めて来たから従姉妹を集めといたよ」と言い、襖を開けたら初対面十数人の女子が現れて吃驚。未だにあの時いたのが誰と誰なのか、分かりません。

1ヶ月近くリュックを背負って九州を回りましたが、当時は宮崎新婚旅行がブームで、どこへ行っても明色のスーツと帽子姿の新婦に出遭い、数えたら1日30組以上。印象に残っている土地は柳川、高千穂、天草の戦場跡、それに長崎でしょうか。宿(学生の貧乏旅行ですから、ユースホステルです。卵かけご飯が苦手なのに、1日も欠かさず朝食に生卵が出たのは辛かった)を予約する際に3月が大の月であることを忘れ、長崎泊が予定より1日増えて、街に流れる交通安全ソングを歌えるようになりました。坂を歩き回り、チャペル(女性更生施設だった)に飛び込んで、ミサを傍聴させて貰ったりもしました。

列車の都合で大分県では時間が半端だったため、畑の中に立つ蜜柑の原木を観に行ったり、駅前のパチンコ屋に入ってみたりしました。朝一番だったせいか、玉が滝のように出て大喜びしたら、店員が機械の裏へ回ってちょこちょこといじり、ぴたりと出なくなりました。それゆえパチンコは、生涯にあの1度きりです。