源平の人々に出会う旅 第63回「東京・志田義広」

 志田三郎先生義広(信太義憲などとも)は源為義の三男で、常陸国信太荘(稲敷市)に居住していました。『平家物語』ではあまり目立たない人物ですが、甥の頼朝とは犬猿の仲です。

明王院(赤不動)】
 寿永2年(1183年)2月、義広は頼朝軍と野木宮(栃木県下都賀郡野木町)で戦って敗北し、後に義仲と行動を共にしました。義仲死後も頼朝に抵抗を続け、元暦元年(1184年)、伊勢国羽取山(鈴鹿市)で遂に討たれてしまいます。

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明王院(赤不動)境内】
 足立区には、義広の開基とされる明王院があります。治承2年(1178)、義広が創建した祈願所が前身と伝わっているようです。

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【佐竹稲荷神社】
 明王院の近くにある佐竹稲荷神社一帯は、江戸時代に佐竹氏の敷地がありました。佐竹氏も、もとは常陸国に居住する源氏の一族ですが、平家寄りであったため、頼朝と対立しています。治承4年(1180)11月、佐竹氏を討伐するため、頼朝自ら常陸国府に入り、金砂城(常陸太田市)に籠城する佐竹秀義軍を破りました。このように、源氏同士の争いも多かったのです。

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〈交通〉
東武伊勢崎線梅島駅
     (伊藤悦子)