寿永3年(1184)4月、清水冠者義高が頼朝の命令で殺害されたことにより、許嫁であった頼朝と政子の長女大姫は薄幸の生涯を送ることになります。
【岩殿寺(岩殿観音堂)】
文治3年(1187)2月に大姫、建久3年(1192)3月に頼朝、建久4年(1193)8月に政子、同年9月には頼朝が大姫の平癒祈願に岩殿観音堂に参詣したことが『吾妻鏡』に記されています。ですが大姫の心が癒えることはありませんでした。御伽草子『清水冠者物語』は、大姫の祟りによって父の源氏が亡び、大姫に同情的であった母の北条氏が繁盛したとしています。
【杉本寺(大倉観音堂)】
杉本寺は、『吾妻鏡』には大倉観音堂の名で記され、建久2年(1191)に頼朝が参詣しています。由来は未詳ですが、尼将軍地蔵が祀られています。
【北条政子墓(寿福寺)】
頼朝の死後、政子は尼将軍として承久の乱に勝利しますが、親としては4人の子に先立たれるという悲劇も乗り越えなければなりませんでした。