白拍子の芸能

植木朝子さんの論文「白拍子の芸能―歌詞と旋律の間、身体と装いの間―」(「国語と国文学」3月号)を読みました。白拍子とは、平安末期から中世にかけて貴族社会で大流行した歌謡(音曲・舞およびそのリズムをも言い、それを得意芸とした芸能者=遊女をも言う)ですが、植木さんはその歌詞自体にも、歌詞と旋律、舞の構成、芸能者の身体と装い(異性装)にも、相反する要素が同時に含まれていることに注目しました。

最初に、興福寺の延年で稚児が舞う白拍子について記録した『今様の書』(仁和寺蔵)所収の歌詞を、同名の曲が多い早歌と比較して、その共通性と相異とを考察しています。両者とも祝意が濃厚で、物尽くしの形式が多いが、前者が色に興味を示し、視覚的に華やかな雰囲気を持つこと、しかし恋の要素が少ないことなどを指摘しているのは面白いと思いました。男性集団の大寺院の儀式で稚児が舞うのと、武士社会で素人でも舞える芸能との違いが明瞭です。ちなみに早歌が「・・・の徳」を数え上げていく形式は、中世小説・絵巻の分野で「○○の徳」と題する作品が続出する時代性に通底しており、実用性に価値を見いだし、それに対する感謝を神秘化しようとする、中世後半の志向に関連するものだなと改めて納得しました。

また白拍子の歌詞は1曲の前半と後半とで相反する内容を含む例があること、舞の構成は前半は緩やかに、後半は足拍子を踏んで、静と動とが対照的なものだったらしいこと、この芸能を専門とした演者は男装の遊女または女装した少年で、性の越境を体現していたことなど、一種のねじれが魅力の源であったろうと推測しています。

但し「亡国の音」(『続古事談』)の解釈には、もう少し議論の余地があるのではないかと思いました(私は歌謡の研究史には詳しくありませんが)。