午後からオンラインで、関西軍記物語研究会に参加しました。ハイブリッドによる開催で、リモート参加は10名に満たないようでしたが、会場には30名近い参集があったそうで、盛会だったようです。発表は、①安藤秀幸さん「近世における立烏帽子説話の展開—『庭訓往来抄』蟇目注説話を中心に—」と、②久保 勇さん「『将門記』の読みをめぐる試論—『小過を訂さずして大害に及ぶ』から—」の2本。
①は、謡曲「鈴鹿」、『田村草子』などで知られる坂上田村麻呂と女盗賊鈴鹿御前との物語と共通する話題を持つ「立烏帽子」の蟇目語源説話を取り上げ、近世の流布、影響を考察したもの。出発点の「立烏帽子」の原典は所在不明らしく、1901年刊『新編御伽草子』所収の翻刻をもとにして、近世の文献類と比較し、寛永8年(1631)刊『庭訓往来抄』の影響が大きいと推測しました。発表にはもう少し整理する必要があったのではないかと思いながら聞きましたが、ふと『今昔物語集』を始め、中世に女盗賊の話題が多いのは何故か、立烏帽子は白拍子の装束でもあるなあ、と考えたりしました。
②は、『将門記』を通読する内にぶつかる難読箇所ー史実や物語内の文脈と矛盾する点や、解釈しにくい部分を取り上げ、先行研究を参照しつつ当時の法制などを考慮して、新たな解釈を提案しようとする発表で、意欲作。何回か授業で取り上げたそうで、その分練れている感がありましたが、論点が一定方向へ集中せず、作品論として完成するには未だ必要な階梯があるようです。聞きながら『将門記』のわかりにくさ、不統一性の要因には、文体の制約(表現に引き摺られた)があるのではないかとも思いました。
「読む」論では先行の論が気にはなりますが、あくまで共感か論破の対象としてであって展覧や忖度は無用でしょう。作品自体に基づく、独立した説得性がなければならない。