女院と芸能

辻浩和さんの「院政期の女性と文化・芸能」(京都女子大学宗教・文化研究所「研究紀要」34号)を読みました。講演録でしょうか、手短かに、分かりやすく述べています。

帝王としての院には諸道を実践、興隆することが期待されており、すると臣下は各人の芸を活かして昇進・活躍する機会を得ることができ、貴族や官人の家業を保護することにつながった、臣下の側から言えば、芸能が主従関係を築くきっかけとなり、貴族社会で生き抜く武器となった、また彼らの人脈を通して遊女のような下層階級や地方の文化が中央に吸い上げられていく、と指摘しています。

院政期以降は女院内親王が文化的サロンの主宰者になり、そこに仕える女房たち(女房も女系の家業だった)も文化活動に関わりました。しかし院自身は新興芸能を含めて実践に関わったが、女院はその紹介者、場の提供者に留まったのではないか、というのが結論です(読者としては、参考文献の注記をつけて欲しかったと思います)。

後白河院の今様好きは、待賢門院からの影響であった(小川寿子)とされていることも知って、不勉強な私は改めて、女院文化に注目しなければいけないなと思いました。例えば『風葉和歌集』が編まれた大宮院のサロンで、『平家物語』が次第に「物語化」していく、というようなことはなかっただろうか、と夢想してみるのです。

辻さんは、元木泰雄編『日本中世の政治と制度』(吉川弘文館 2020)にも「内教坊小考」という論文を書いています。内教坊は11世紀以降13世紀にかけて、本来のありようから乖離し、坊家奏・坊家図に虚構が含まれることもあり、倉庫や仏事の場にもなって、13世紀後半からは明らかな変貌が見受けられる、と論じています。形式上は近世まで存続するものの、内教坊は、鎌倉後期には有名無実化したと考えてよさそうです。