2つの黒川本

黒川真頼という国学者(文政12=1829年~明治39=1906年)が所蔵していた書物の多くが、関東大震災で焼失したことはよく知られていますが、「黒川本焼失目録」には、保元物語(古写本・異本)や義経記(木活本)と共に、源平盛衰記(古写本 内策彦ノ筆ト称スルモノアリ 和学講談所伝来)32冊と、平家物語4種が挙げられています。その中に「濱田侯本ノ元本」と注記された20冊の写本、長門本平家物語がありました。

実践女子大学には黒川本の一部が所蔵されていますが、長門本は書肆から購入されたものだそうで、黒川本ではありません。ところが、黒川本の透き写しと思われる長門本が市場に出て(『思文閣古書資料目録』276号)、年末に落ち着き先が決まりました。

明治34年9月に三田葆光(さんだかねみつ)が黒川真頼の古写本を模写したとの奥書があり、料紙の質と大きさから見て透き写しと判断されます。三田葆光(文政8=1825年~明治40=1907年)は、蝦夷開発や欧米視察など明治維新に粉骨砕身した幕臣で、真頼の弟子でもありました。長門本の本文としては、いわゆる私的写本に属し、初期本文ではありませんが、一部に校異の書き入れや頭注などがあり、丁寧に書写されています。

じつは明治34年というと、長い間私たちが使用してきた国書刊行会翻刻が出された5年前、しかもこの翻刻は黒川本を校訂に用いたことを例言に謳っているのです。底本が現存伝本のどれなのかは明確でなく、従って校訂者の判断がどの程度反映されているのかも分からないまま、私たちは使用してきたのですが、三田本の出現によって、黒川本の実態と位置づけを究明することが可能になりそうです。

近代初期の校訂作業が現在の研究レベルに照らしてどの程度精確か、冷静な吟味が必要なのは源平盛衰記に関しても同様です。