畠山重忠

清水亮さんの『中世武士 畠山重忠秩父平氏嫡流』(吉川弘文館 2018)を読みました。桓武平氏の子孫秩父氏は、上総・千葉・三浦氏などと共に平良文を始祖としており、11世紀武蔵国秩父を本拠に、京都とも交流を保ちながら、源義家河内源氏嫡流と主従関係にありました。12世紀、秩父平氏嫡流内部の争いと、河内源氏嫡流の争いつまり源為義・義賢対義朝の争いが結びつき、大藏合戦が勃発、勝利を得たのは畠山に進出していた重隆と、義朝の長男義平でした。しかし平治の乱の後、義朝に関係していた三浦、千葉、畠山らは立場が低下し、重忠の父畠山重能平氏に奉公することになります。

治承の頼朝旗揚げの際、畠山重忠は初め平家側で三浦とも戦いましたが、降伏ではなく参戦として頼朝側に加わることに成功、鎌倉幕府成立後も即かず離れずの名誉ある位置を保ち続けますが、元久2(1205)年北条氏に討たれました。源平盛衰記吾妻鏡を読んでいくと、頼朝挙兵話群では、殆ど副主人公のように畠山の存在感が目立ちます(その傾向は、後の曽我物語や芸能、延いては歌舞伎にまで承け継がれていきます)。

本書を読みながら、読み本系平家物語に続出する坂東武士の相互関係、殊に縁戚を通じた関係が理解でき、地政学的に武士団の興亡を展望する視点を得ました。貫達人さんの名著『畠山重忠』(吉川弘文館 1962)を書架から取り出して見比べ、改めて、当時の研究水準としてはいかに良心的な著述であったかを痛感しました。

仁治4(1243)年頃の畠山の記憶は、どのあたりにあったのだろう、京都から見れば、関東版「平家物語」の主人公になり得る人物だったのかなあ、と考えてみたりもしました。半世紀前、バスツアーで秩父・畠山を訪れたことがありますが、雑木林と丘陵と畑作の続く地形に、良牧の面影を実感したことでした。