嵯峨本前史

小秋元段さんの「嵯峨本とその前史の一相貌」(法政大学文学部紀要82号 2020/9)を読みました。近世初期に、嵯峨で角倉素庵が関わって開版された、美装本の古活字版があり、嵯峨本もしくは光悦本と呼ばれています(実際には光悦は関与していなかったらしい)。小秋元さんは、嵯峨本の大半は慶長10年代前半に刊行されたようだが、10行本『方丈記』や下村本『平家物語』なども、嵯峨本前史に属すると言っています。

嵯峨本『徒然草』第1種第2種、嵯峨本『方丈記』、10行本『方丈記』、下村本『平家物語』、『観世流謡本』においては、文節が行を跨がないように工夫され、漢字や仮名の当て方によって1行の文字数を調整していると、小秋元さんは指摘しました。また漢字平仮名交じりの古活字版は、しばしば連綿体の仮名を2,3字まとめて彫ることがあり、そうすると本来の字数分だけ必要な空間を、伸縮させることができます。小秋元さんは、嵯峨本前史に属する3書が、さらにこの活字を使って行替えで文節を跨がない方針を一貫させており、これはキリシタン版の後期国字本を参考にした手法であろうと推測、しかし後の嵯峨本にはこの方法は継承されなかった、と結んでいます。

写本の行替えには、しばしば意味内容がつよく意識されていることは、書誌調査をするとすぐ判ります。初期の古活字版が、写本的な意識を承け継いで制作されていることは、これまでも指摘されてきました。本論文を読んで、古活字版の1行文字数や活字の大きさが一定でない理由の一つが、納得できました。

近年、刊本の研究が進んで、古活字版の作られ方にも光が当てられ、興味深い事実がいろいろ明らかになってきました。『平家物語』を研究していると、版本には無関心になりがちですが、そうも言っていられないなあと痛感した次第です。