平家滅亡の後、次々と近親者を粛清した頼朝は、着々と鎌倉幕府の体制を整えていました。『平家物語』からは外れますが、『吾妻鏡』には、建久3年(1192)に征夷大将軍となった頼朝が、その2年後の閏8月1日に、三浦の津に山荘を建てるという記事があります。「この所の眺望、白浪を鋪き、青山に倚る。凡そ地形の勝絶、興遊の便を得るものか」と記されており、その景観の素晴らしさに魅了されたようです。現在、三浦市には、頼朝の"三崎三御所"が伝わっています。
【椿の御所(大椿寺)】
三御所の一つが、椿の御所です。この御所に住んでいた側室が出家して妙悟尼となり、頼朝の菩提を弔うために大椿寺を建立したと伝わります。
【桜の御所(本瑞寺)】
桜の御所は、頼朝が多数の桜を植えて観桜の宴を催し、子の頼家・実朝も訪れたと伝わります。
【桃の御所(見桃寺)】
もう一つは桃の御所です。御所跡地とされる見桃寺は、北原白秋夫妻が一時期寄寓していた寺です。境内には、白秋自身が除幕式に参加した白秋歌碑があります。
「寂しさに秋成が書(ふみ)読みさして庭に出でたり白菊の花」(『雲母集』)