出雲出身で日本史が専門の錦織勤さんと、北前船についてのやりとりが続きました。北前船の物産が来るか来ないかというのは、港の問題だけではない、というのです。
【高岡出身の学生が卒論で昆布を取りあげて、なぜ富山の1人あたりの消費量は日本一か、という問題を論じたことがあります。金沢でも、福井でも昆布の消費量は全国有数ですが、鳥取や松江の消費量は多くない。同じ北前船のルート上なのにどうして違うのか。中世までは、北陸道の海運は敦賀で陸揚げして、琵琶湖に出て、船で大津~京都まで運んでいました。つまり中世でも、北陸道には北海道の物産(昆布など)が運ばれ、その段階で食文化として根付いたのではないか。山陰にはそういう条件がなく、昆布食文化もなかった。それが現代までつながっているのではないか、という仮説でした。
美保関には北前船は来ていました(但馬からは美保関直航なので、鳥取は素通りです)が、松江には昆布文化といえるようなものはないと思います。私は昆布締めというものを、金沢に旅行に行って初めて食べました。直接の港がない場合、近くの港を利用してでも物産を得ようとしていた例があり(久美浜湾には北前船が直接は入れなかったので、近くの旭港に入り、そこから小舟で運んだ)、港がないというだけではない、そこに由来する歴史・文化の問題も絡んでくる、と考えるのは面白いと思いました。
30歳で鳥大に赴任したときに歴史環境学科所属だったら、私はいまごろは交通・農業問題をやっていたと思います(錦織勤)】。
錦織さんは学部改組後、研究分野を地方史、地域産業史中心に変え、私は器用な人だなと感心したのですが、もともとそういう方面に関心があったらしい。
博多出身の我が家では、だしは煮干しや飛魚の干物が主で、昆布はやや贅沢品でした。