鈴木孝庸さんの①「平曲からみた木曽最期」(新潟大学「国語国文学会誌」57)、②「平曲における大音声について」(「古典遺産」71)を読みました。鈴木さんは実際に前田流平曲の語りを故橋本敏江さんから習い、この10月、師の七回忌に連続演誦一部平家(30日間連続、通しで平家物語全句を語る)を完遂したそうです。
①は学校教育でもおなじみの「木曽最期」の構成を、文章と曲の両方から考えたもの。平曲では語り出し、語り終わりの曲節がほぼ決まっていて、それを考慮すると、もし「木曽最期」の句を前後に分けるなら、「手塚太郎討ち死にす。手塚別当落ちにけり」から後半としたい、という。またツレ平家で語る時は、後半は物語の主たる動きを担うのが義仲ではなくなり、導師と助音の関係が逆転してしまうので、ツレでなく1人語りと指定する譜本もあるそうです。
②は詞章に「大音声を上げて」とか「髙声に」「たからかに」などとある人物の台詞部分が、曲節ではどう指定されているかを考察、必ずしも台詞の全部を強声で語るわけではなく、語り手の発信(物語の地)に融け込んでいくように構成されている、つまり台詞部分といえども、物真似的に声音や音量を変えて語るわけではない、但し前田流に比べて波多野流の方が、詞と曲節の密着度が高いと言えそうだ、という結論です。
現存の平曲は、説経浄瑠璃などのように音声で人物の特性や感情をなぞることはしない、詞章と音曲の印象を直接結びつけることはできない、芸能として自立したものだ(橋本敏江さんは、平曲は絶対音楽、というのが持論でした)という、大事な、しかし屡々誤解されている視点を、演誦者の経験も踏まえて立証した論文です。発生当初の琵琶語りの実態は、未だ分かりません。