寿永2年(1183)、入京した義仲は京都の守護を命じられますが、京中の狼藉は収まりません。『平家物語』は、狼藉を義仲軍のみの所為であるかのように記し、義仲の田舎者振りを嘲笑する”猫間”や”牛車”のエピソードを載せます。事実を誇張したのか、『今昔物語集』等をヒントに創作したのかは不明ですが、覚一本等の語り本と延慶本等の読み本とでは受ける印象が微妙に異なります。
【根井氏居館跡(正法寺)】
猫間中納言が義仲の館を訪ねた時、語り本では、義仲は「猫が人に見参するのか」と大笑いしますが、読み本では、根井小弥太行親が義仲に「猫殿」と伝え、それを義仲が叱咤しています。行親は信濃国滋野一族の武士で、義仲の四天王とも称されます。
【根井行親供養塔】
読み本では、木曽で成長した義仲を平家が警戒した際、養父中原兼遠は出家して、義仲を行親に託したとします。つまり、行親は親族に近い存在でした。『保元物語』には根井大弥太という人物が登場します。行親の父か行親本人かもしれません。
【楯親六郎忠居館跡】
行親の子で、同じく四天王とされる楯六郎親忠は、佐久の館(たて)地域に居住しました。付近には、水島合戦で戦死した矢田義清の居城とされる大崖城跡や山吹城跡もあります。ちなみに、近世の浄瑠璃には源平の人物をモデルにする作品が多数ありますが、楯親忠は「伊達」という名でしばしば登場します。
【抜井川】
義仲の父義賢が武蔵国大蔵館で討たれた時、未だ乳児だった義仲は木曽へ逃がされます。逃亡経路の有力候補が、抜井川に沿った武州街道です。親忠や義清の館跡も街道沿いにあり、彼等が最期まで義仲と行動を共にしたことからも、十分あり得るでしょう。