研究者の老い

同業者の言動を見ながら、ああ、あの人は老いた、と思う瞬間に2つの場合があります、必ずしも年齢とは関係なく。第1に研究動向を人の名前で言うようになったとき、第2に用語をあれこれ規定したがるようになったとき。

かつて畏敬の念を以て眺めていた先輩が、研究課題を「こと」でなく人名で言うようになり、怪訝に思っている内に、どんどん話が内輪向きになっていったことがありました。聞いている方はコメントしにくくなり、やがて専制君主のような存在に変貌してしまわれました。悲しかったのですが、私自身が校務その他で多忙が続き、ある時授業でふと、研究動向を人の名前の羅列で話していることに気づいて、愕然としたことがあります。つまり不勉強なんだ、と深く恥じました。後年、学界で活躍している(と自認している)後輩が、○○がやっている××、という言い方で、ある研究テーマに言及しているのに出くわし、ひどく落胆しました。

人文学は、作業仮説やとりあえず立てた概念を使って議論するので、用語が成果を左右することはよくあります。用語によって、ひろく共通の議論が成り立つかどうかが分かれることもあるでしょう。しかし研究史の上で定着してきた用語には、それなりの理由があり、経緯が絡んでいます。新たに提唱した用語によって議論を自分の傘下に囲い込みたくなったら、それは老化現象の一種かもと疑うべきでしょう。従来の用語の性質をよく踏まえて(ときには再定義が必要かもしれませんが)、使っていきたい。

守りに入ったら老化、攻め続けてこそ現役、というのは分かりやすい図式ですが、その前に、研究課題の要約、研究方法に必要な概念を、自身の内部で点検し続ける能力を保っていたいと思います。つよく、つよく自戒を籠めて。