城阪早紀さんの論文を3本読みました。①「『覚一本平家物語』の「まさなし」と「うたてし」」(「同志社国文学」95 2021/12)及び②「『延慶本平家物語』の「まさなし」・「きたなし」と「うたてし」」(「同志社国文学」96)、③「平家物語「あさましき」こと考」(「文化学年報」71)、いずれも「語句分析から伝本の相違を考える」という副題が付された、一連の論考です。平家物語に見える形容詞に注目し、特に重要場面に使用される例を取り出して、覚一本と延慶本の相違や両本の価値観を考察したもの。
評語には編者の意図が顕れる、とは誰しもが思うところなのですが、数多くの、しかも本文伝承関係の複雑な諸本を見ていると、必ずしもそう考えていいかどうか懐疑的になります。近代の著作の感覚で見てはいけないらしい。実際に細部が近い本文(例えば語り本系の近接本文同士)で対照作業をしてみると、評語は容易に入れ替わり、しかも一定の方向を示さない場合が少なくない。殊に実体のない、感情というものを表現する形容詞は、読み手の解釈が大きく関わります。①の「まさなし」の例7、「うたてし」の例A1、②の注16の例などは、異なる解釈がありそう。
せっかく語句分析を出発点にするなら、辞書的意味に留まらず、言葉の表現価値に踏み込んで、その心理的効果を照らし出す試みを目指して欲しい(かつては中古の物語に関して表現論の試みが行われていましたが、今はどうなのでしょう)。結論が物足りません。今回の作業は試掘というところでしょうか。なお③では原文引用に脱字が見受けられ、また拙稿を引用した際、作品としてではなく概念としての「平家物語」に言及する場合の「」を『』に変換されたのは不本意です。また「伝本」という用語は、書誌学上「諸本」とは区別されるべきで、先行研究の中には誤った定義もあるので要注意。