説話文学研究57

あまりにぎっしりコンテンツが詰め込まれていたため、ツンドク期間が長くなった「説話文学研究」57号(2022/9)を読了。シンポジウム①「『曽我物語』と説話」、②「戦争はいかに語られるか」、③「西域・中国からの水脈ー仏典と翻訳・俗講」を中心に、自分の関心のあるものを読んだのですが、書評・紹介欄は評者の個性が様々で面白かったし、論文では音楽説話に関する2篇が読み応えがありました。

①は小井土守敏、渡瀬淳子、坂井孝一、黒石陽子、会田実、宮越直人という顔ぶれ。小井土さんの、真名本曽我成立年代に関する話題提供(永正6年1509成立の『神祇肝要抄』がほぼ妙本寺本と同文の真名資料を参照している)、坂井さんによる、真名本には3種の仇討の組み合わせと伊東・北条を対比する構想がある、との指摘が有益でした。

②は佐伯真一、佐倉由泰、井上泰至、鈴木彰、大津雄一の顔ぶれ。私には佐倉さんの「<武>の表現史の構想ー武官をめぐる言説に注目してー」が新鮮でした。平安文学以来、宮廷の「戦わない武官」が物語の中でいかに魅力的に語られ、その系譜の上に中世の「戦う武官」が登場し、平家物語から戦国軍記、将門記までどう異なっているのかを、和文と漢文の両方から照射した、視野の広い、しかも文学の拠点を守った好論。

③は牧野淳司、船山徹、小島裕子、黒田彰、近本謙介という顔ぶれ。私には小島さんの論がたいへん有益でした。「流砂葱嶺」という語の背後にある仏教説話の広がりを描き出す、壮大な話です。読んでいくと、平家剣巻やいわゆる中世日本紀が使いたがる語彙が次々に浮かんできて、それらは単に辞書的意味を理解しても不十分で、背後に独自の拡がりがあり、この時代独特の意味を纏っているのだ、ということが解ったような気がしました。今まで何となくしっくりこなかったあの世界の肌触りを、ふっと許容できたような。