戦国期島津氏と清誉

中村昂希さんの論文「戦国期島津氏の都鄙間交渉―不断光院清誉の活動を中心に―」(「七隈史学」25号)を読みました。私は専門外なので、16世紀後半の武家文化への関心くらいしかなかったのですが、読んでいくと、有力大名と京洛との関係の具体例が分かって面白く読めました。

永禄5(1562)年、島津貴久が鹿児島に建立した浄土宗寺院不断光院に、京都の不断光院から開山として招かれたのが清誉でした。京都の不断光院は近衛家の内道場であったと伝えられ、清誉も近衛家に親しく、近衛家の使者を務めたり取り次ぎ役を引き受けたりしていたようです。薩摩では、明治の廃仏毀釈が徹底して行われたため寺院に関する古い史料が殆ど残っていないとのことで、改めて時代の変動期の難しさを思いました。

島津氏と清誉との交流は、京都での和歌・連歌の会を通じて始まったようで、島津貴久近衛家から古今伝授を受けるに当たっては、清誉の尽力があったらしい。島津一族の樺山善久が古今伝授を切望した際も、清誉が近衛家に取り次いだものの、近衛稙家が中風のため文書を書けず、古今集そのものを薩摩へ送って書写を許し、その時の転写本は樺山家の家宝となったことが、文禄2(1593)年の樺山文書に記されているのだそうです。逆に近衛家が島津家を通して鉄砲薬の調合法を入手する際は、清誉が交渉役を務めたという。

全体によく整理して書かれた論文で、とても分かりやすい。但し、p63下段、史料12の読み、「川上に小舟10艘ばかりを」以下は「隠し置いてありましたのを奪わせなさいました」では。またp62上段、「特出される」とあるのは語法上疑問、「突出している」か「注目される」か。p63上段「義輝は」とあるのは「義輝が」がよい。「おさえる」という表現は日常語的、「確認する」の方が論文らしいでしょう。