歴史叙述と文学

国文学研究資料館の平成二十八年度共同研究成果報告書『歴史叙述と文学』(代表福田景道)所収の論文3編を読みました。大橋直義「伝記への執心」、清水由美子「『平家物語』における多田行綱」、福田景道「『増鏡』と『梅松論』の歴史性と文学性」の3編(副題略)です。

大橋さんは、『扶桑略記』の編者と形成圏の研究史にさらりと触れ、従来の伝本分類と翻刻本文の問題点を指摘、その上で『扶桑略記』は、人物伝を核として日本の対外交渉史を意図した歴史叙述であると説きます。私も注釈その他で『扶桑略記』をしばしば利用しながら、本文批判までは手が及ばず、また慈光寺本承久記の序などの生まれる背景が気にかかっていました。果たして当時の「東アジア」における日本の位置づけを意図した枠組み、と言ってしまっていいのかどうか、注目していきたいと思います。

清水さんは、平家物語では鹿ヶ谷事件の密告者としてのみクローズアップされがちな多田行綱について、『兵範記』仁平3年7月16日条により康治2年生と推定し、『愚管抄』記事を引きながら、一ノ谷の功績は黙殺されて鹿ヶ谷の裏切りばかり有名になったのは、近衛家後白河院に忠実に行動した武士に対する九条家の視点が関わっているのではないかと憶測しています。「書かない」ことによって造型する歴史文学の方法の一面が、あぶり出されてきます。また『愚管抄』の記事がすべて事実に基づいているのかどうか、という問題に発展していくならば今後紛糾しそうで、関心が持たれます。

福田さんは、「歴史物語」の定義から説き起こし、文芸か歴史か、という判別にこだわって『増鏡』と『梅松論』の皇統継承記事を論じます。しかし私は、この時代、正史や年代記でなければ、物語のかたちでしか歴史を語る方法はなかったのではないか、と考えたりしました。『増鏡』が「明暗の循環的交替法則によって」書かれ、『梅松論』は「天」の思想に基づいた一貫的説明を試みたとする指摘は、平家物語諸本の語り口の差異と照らし合わせてみると、興味深いものがあります。