源氏物語幻巻の苗代水

大津直子さんの論文「断絶する「苗代水」と六条院四季の町―『源氏物語』「幻」巻明石の君の和歌をめぐって―」(「文学・語学」230号 2020/12)を読みました。光源氏が造営した六条院には四季の壺が設けられ、実子のない紫上の住む春の壺が母屋格、光の血統を伝える女児を産んだ明石の上は冬の壺の主でした。本論文は、紫上を喪った光が明石の上と交わした贈答歌を取り上げ、源氏物語第2部末尾の構想を読み解くもの。

30代までは私も源氏物語研究の最前線を追いかけていましたが(小町谷照彦さんや後藤祥子さんの、和歌を通して物語を解読する手法は、軍記物語にも共通していた)、近年は偶々目につく論文を拾い読みする程度なので、専門家の眼からは的外れかもしれませんが、歌語の隠喩が、物語の書かれていない部分を暗示しているという論点には、共感を持ちました。

紫上没後、光が贈ってきた歌から彼の心境を思いやった明石の上が返した歌「雁がゐし苗代水の絶えしより映りし花の影をだに見ず」は、返歌としても歌語の使用法としてもやや特異で、中でも「苗代水」は源氏物語では唯一の例であることから、本論文はこの語に注目しました。そして、ついに実子はなかったものの明石の姫君やその御子たちを養育した紫上を称える意図が含まれていると論じました。肯ける推論です。

苗代と神事の関係から『播磨国風土記』や『住吉大社神代記』を引く必要性は、いま一つ私には分かりませんでしたが、春の壺に立坊が取り沙汰される二の宮が住み、「罪」とは関わらぬ子孫に即位の希望が見えてきて、苗代に雁が帰って来るように、農耕的豊饒の季節がすぐそこに来ている、という結びは感動的です。

すると第3部は、罪の子の物語ということになるのでしょうか。続論を待ちます。