文保本保元物語

阿部亮太さんの論文「文保本『保元物語』の来歴と生成―南都寺院社会の一隅における文芸活動―」(「目白大学人文学研究」18)を読みました。文保本保元物語は彰考館蔵の写本、中巻のみの端本ながら古態を残し、文保2年(1318)の書写奥書を持つゆえに重視されてきました。延宝8年(1680)、二条家から、大日本史編纂事業に伴う史料収集のため南都を訪れた佐々介三郎に、長禄本剣巻と共に譲られたことが判っています。

阿部さんは、内題下方にある旧蔵者名「光臺寺継実■」の光臺寺(広大寺とも)は興福寺と縁の深い、大和国にあった廃寺であり、書写奥書の下に書かれた「法花院」とは書写者の坊号か住坊名で、大和国添上郡にあったと推定し、南都諸寺院の学僧との交流が盛んな環境だった、東大寺には恐らく寛元4年(1246)以前に平治物語と共に保元物語もあったろう、保元物語伝本の一部は東大寺周辺で編纂され、法花院には数種の伝本が集まり、これらを駆使して文保本が編まれた、と想像しています。そしていつしか東大寺の勢力圏から興福寺の勢力圏に移って、光臺寺の継実に伝わり、一乗院門跡に仕える二条家の所蔵となっていた、と立論します。

先行研究を踏まえ、史料や現地の調査も行って、犬井善寿さん以来最重視されてきた文保本の伝来を解明しようとした意欲作ですが、おいおい、ちょっと待て、と言いたくなる箇所も屡々です。憶測が大胆な仮説となり、次節では前提になっている、という場合が少なくない。そもそも書写や伝本を問題にするのに、原資料を見て(触って)いないのは怖すぎる(彰考館の許可が出てからでも遅くない)。記事内容と関わらない論も疑問です。

とりあえず仮説として出したのなら、何十年か経って、自らの手で書き直せることを目指して下さい。書誌に基づく立論には、経験が必要です。