時計屋

腕時計が動いたり止まったりするので、電池切れにはちょっと早いなと思いながら、春日通り沿いの時計店に出かけました。東北訛りの老店主が修理もする店です。先客がありましたが、開いている時が少ない店(コロナ以来、子供たちからもう辞めろと言われたのだそう)なので、腰を下ろして待つことにしました。

店内を見回すと、目覚ましや腕時計は昔より信じられないくらい安くなりました。硝子ケースの中に、小さな透明の箱を並べて、分解した時計の部品が置いてある。転用するためなのか、でも時代色のついた精密な歯車や捩子は、それ自体が美しい。インテリアになるな、と思いながら眺めました。

20分くらい待って順番が来ました。本来なら2年保つはずの電池だが、時計も古くなると、人間と同じで手が掛かるようになる、と言う。亡父から下げ渡された時計なので、40年近く使ったと思います。そろそろ寿命か、と思いつつ今回は電池を替え、2年経たずに止まったら諦めることにしました。話好きな店主で、86歳になったのだそう。時計を見ているとは気づかれないように見るには、男物の方がいいんだよね、と言ったら、いやいや今は長袖をめくっても堂々と時計を見るようになった、と言う。私の場合は生徒の気が散らないためだったのですが、そう言えば昔は人前で腕時計を見るのは失礼な動作でもありました。スマホが普及して、腕時計はあまり使われなくなったのかもしれません。

本人より高価な腕時計をしてどうするんだろう、ましてそれをリースに出すなんて気が知れないね、腕時計はとても個人的なものなのに、という話をしたら、店主はコロナよけのクリアシートの囲いから飛び出してきて、そうなんだよ!と熱弁を振るいました。思いが溜まっていたものとみえます。

石母田正がいた時代

評伝『石母田正』(磯前順一 ミネルヴァ書房 2023)を読みながら、かつて見慣れた日本史の学者名が次々出てきて、ああこの人はこうだったのか、と知る例が続いたので、日本史の人は本書をどう読むのか知りたくなり、錦織勤さんに問い合わせメールを出しました。錦織さんは府立図書館で借りて読む、と言ってきましたが、読む速度は私よりずっと速く、2,3日後にはこんなメールが来ました。

【思想史的なところは十分に理解できたわけではありませんが、全体としては、非常に面白く、勉強になりました。石母田さんの思想的な背景が、日本共産党の動向と、ここまで不可分なものであったことは、知りませんでしたし、英雄時代論がどのような意図で書かれたものか、それが石母田さんにとってどれほど重要な問題だったのかも、初めて知りました。ここに書かれているようなことを分かった上で、著書・論文を読んでいたら、受け取り方も違ったものになっただろう、と思いました。
石母田さんの一番の課題は、社会の変革、マルクス主義的な革命にあったというようなことは、以前から窺えるところでしたが、それが石母田さんにとって、どれほど切実で重要な課題だったのか、というようなことは、周りにいた人には知られていたことなのでしょうが、地方で細々とやっていた者にはなかなか知り得ないところで、要するに、「階級国家の成立と消滅という石母田の研究主題を除去したところで、その成果を既存の制度史として読み取ろうする」(本書ⅱp)者の典型だったということです。この本を読んでみて、改めて石母田さんの偉大さ、人間としての誠実さ、謙虚さも見えてきたと思います。
教養部の頃に読んだ論文に、史料の読み誤りを指摘されたのに対して、「史料にどう書いてあろうが、マルクスはそう言っているんだ」と書いたものがありました。唖然とし、それが有力誌に載せられていたことも驚きました。史料よりマルクスが大事なら、歴史じゃないだろう、と思いました。その種の体験や、『資本論』にはこう書いてあるとか『ドイツ・イデオロギー』にはこうあると言われると、読まざるを得ないような気がして手を出すのですが、何度も挫折。近年、同年代の非常に有能な日本史研究者が書いた、人生で一番読んだのは『資本論』だ、という文章を読んで、いま思うと、日本史の主流となっていた研究との向き合い方については、分からないなりにもう少し対処の仕方はあったのかもしれない、という気もしています。ウェーバーは分からないなりに面白いと思いました。『理解社会学のカテゴリー』だとか、『社会学の根本概念』などという、概念規定がずらーっと並んだ、一見、無味乾燥とも思える著作も、理解できないのだけれど面白い、わくわくする感じがありました。】

ほぼ同じ体験をしてきたと思いました。「共産党宣言」の昂揚感は今も思い出します。

石母田正評伝

磯前順一著『石母田正ー暗黒のなかで眼をみひらきー』(ミネルヴァ書房 2023)を取り寄せて読みました。歴史社会学派の旗手、また名著『平家物語』(岩波新書)の著者として、私と同世代、やや年長の軍記物語研究者たちが敬意と憧憬を籠めてその著作を読んできた歴史学者石母田正(1912-86)の評伝。全370頁、著者は思想史が専門らしく、饒舌な筆がときに走りすぎる感もありますが、膨大な資料を読み込んだ労作です。

一読後、自分が何も知らなかったことを思い知らされました。石母田正は、ただ歴史学者、哲学者ではなく革命家と呼んでいいほどのマルクシストだったのですね。国はどうあるべきか、民のための社会はどうしたら実現できるかという課題の追求と歴史研究とが一致していた学者だったのでした。本書には上部構造と下部構造、六全協奴隷制民族主義、主体、交通、世界史的個人といった、一時代の用語が頻発します。

私が知っていた石母田正は、古事記平家物語や宇津保物語を斬新な眼で読み解き、国文学者の見ていなかった世界を古典作品から起ち上がらせてくれた人、共産主義者ではあったが古武士のような筋の通った正義感を貫き通した学者、というものでした。殊に平家物語に関しては、高木市之助を受け継ぎ、その文学的本質に先入観なく迫った人として見上げてきました。彼の追うテーマの先には天皇制、都市と農村、歴史を変えるのは誰か(英雄時代論)という問題があることは感じていました。

改めて彼の生きた時代を考えると、共産主義共産党の持っていた影響の大きさを、私たちは充分知らないと思います。天皇制と日本(国家・文化併せて)との関係も小さく見過ぎているかもしれません。自分の無知を恥じつつも、彼の古典文学の読みの魅力の因由をたどり直し、国文学に欠けていたものを見直したいとつよく思ったことでした。

ジャムを買いに

ジャムとパンを買いに、少し離れた大手スーパーまで出かけました。ともすれば変化のない生活になりがちなので、毎朝のスープ、ヨーグルトに入れるジャム、晩酌の缶麦酒、それにサラダドレッシングをいろいろ探索し、新しい味を試すのをささやかな楽しみにしているのです。尤も年金生活ゆえ、選択基準の第一は価格です。あまり大きくない瓶(失敗しても後悔しない量)、ほどほどの価格帯で探します。

パンの美味しい街に住みたい、というのが永年の念願でしたが、西片町にあった店が撤退し、あちこち捜した結果、パンの種類ごとに合格点の店が違うことになりました。スーパーの手前の専門店でバゲットだけ、このスーパーではクロワッサンだけを買います。レッドグレープフルーツのジャム、キウイのフルーツソース、それに無花果ジャムを買いました。ここの惣菜は何故か美味しくない。やたらに人参が入っていたり、酢がきつかったりして、健康志向をウリにしているらしいのですが、見た目の綺麗さもなく、たまに買う惣菜としては夢がなさすぎる。山形の赤蕪漬と出雲の竹輪だけを買いました。野菜はターサイ、芹、山葵菜、芽キャベツルッコラを。

嗜好品は極力買わなかった所存でしたが、レジを通ったら、以前の35~40%増しの金額になっていました。物価は上がっています。政府統計の物価は生鮮食品を入れない計算ですが、生鮮食品を買わずには生活できないのだから、統計としては不備だと思います。荷物の重さは3.5kgくらいになったでしょうか、高校時代、毎日の通学鞄は4kgはあった(物理の教科書が重かった)のに、今は提げて歩くのがやっとです。

帰途には日が傾き始めましたが、それでも汗をかきました。軒先の植え込みに木瓜が咲き始め、手入れの悪いプランターにはタネツケバナの白い花が一面に咲いていました。

漫画立国

1人の漫画作家の訃報が、世界中で悲しまれているという報道が気になって、ウェブで少々調べてみました。竜の玉7個を集める話は1984年から95年まで、おかしな発明を繰り返す博士が造った少女ロボットの話は1980年から84年まで、いずれも少年漫画週刊誌に連載され、TVアニメや映画、やがてゲームキャラクター化され、空前のヒットを記録したのだそうです。世界各国で、爆発的に売れたらしい。

以前にも書きましたが、世代を超えて共通の物語が受け継がれていき、一つの文化になる、という現象は大事なことです。古典文学を扱っている私たちにとっては、時代の動きとして常に気になることでもあります。しかし漫画、アニメ、そしてゲームというメディアは、一種の画期をもたらしました。言語の障壁がない分、世界的に拡がることができますが、少なくとも私やそれ以前の世代は、それらの「物語」を永続的に共有することが困難でした。私にとってそれらは、いわば大量消費文化の象徴だったのです。

奇妙な日本語を喋る女の子の漫画は知っていましたが、彼女がロボットで、奇想天外なギャグ漫画であることは今回初めて知りました(手塚治虫や「どらえもん」のパロディという一面もあるか)。西遊記八犬伝の影響を受けた漫画の方は、スポ根ものかと思っていました。長期連載の漫画・アニメの内容やキャラクター設定を知悉するには、幼少年時代が重ならない者の場合、膨大な時間が必要になる(漫画期以前の人間は、つい吹き出しを熟読してから画面を見渡すので、文章を読む以上に時間がかかるのです)。それに読了後の蓄積は応用範囲が狭く、つまりタイコ(時間的効率)がわるい。

古い奴だとお思いでしょうがー経済産業省が推すクールジャパン、漫画立国の世の中に、愕き、佇み、嘆息するしかありません。

講談

日本古書通信」1135号に、目時美穂さんが「音声再生装置としての講談速記」という文章を書いています。明治の半ば頃、大衆紙には小説とは別に、講談の速記が連載され、愛読され、単行本にもなっていた、というのです。明治32(1899)年には東京府下の新聞18種に12種の講談物が載っていたが、大正末期には姿を消してしまったという。そのきっかけは明治17年、速記術に熱中していた明治法律学校明治大学の前身)の学生2人が、稗史出版社という出版社の依頼で話芸の速記を採ることになり、三遊亭円朝の「怪談牡丹灯籠」の口述速記を採ったことだそうです。翌年には、二代目松林伯円の講談「安政三組盃」を、上野広小路本牧亭に20日間通って速記したらしい。

言文一致体の創出に悩んでいた時代でもあり、語りの言葉の筆録は斬新だったのでしょう。しかしこの速記だけをいきなり読んでも、講談の場を追体験することはできなかった、一度でも現場で聴いたことがあれば記憶によって音声が再現できるが、文字だけからでは音声の特色が再生できないため、講談師の方からは不満があったようです。目時さんは「声の援護を失うと、文字で読む定型的な言い回しは陳腐に思え」たと書いています。ふと、これは平家物語にも共通する問題だなと思いました。語り本系平家物語は、琵琶法師の語りをそのまま筆録したわけではない。語りを聴く効果を再構成した文章なのです。

娯楽の少なかった時代、祖母はラジオにしがみついて浪花節や講談を聴いていましたが、子供心にもそれらの倫理感は古くさく、強引に感銘を強いるのがいやでした。しかし最近、エノキさんが神田拍山を聴きに行って、面白かったと話すので吃驚しました。ちょうど届いた企業の広報誌にも、彼の特集記事が載っています。なかなか生意気な人のようですが、弟子との距離感を大事にしている、との談話に共感を持ちました。

アンコンシャス

3月8日は国際女性デーなんだそうで、内閣府のHPには日章旗と大きなミモザの花瓶を背景に、担当大臣の挨拶が載っています。1977年に国連が制定したのだそうですが、遡れば1917年、帝政崩壊に繋がるデモをロシアの女性たちが実施したところからこの日になったと知って、吃驚しました。

新聞もあれこれ特集記事を載せています。その中の1つに、言葉遣いに無意識の偏見が潜む、とあり、拒否する際に女言葉では命令形でなく、「やめて」という懇願の形式が使われることが取り上げられていました。ふーむ、いろいろ思い当たる。教師という職業は屡々、男女両方の役割を1人で担う局面があるので、自然に性別の指標が削ぎ落とされ、男性言葉に近くなります。殊に学生に対して指導し、指示を出す時は無性話法が多い。私も男女共学校で、大学院生など成人に対して話すにつれ、女言葉は極限まで減りました。第一に語尾が言い切りになる(「ね」「わ」等がなくなる)、また敬語が少なくなる(謙譲語・尊敬語の使用が限定的になる)、といった現象です。

父が終末期に近づいた頃、自宅と病院をよくタクシーで往復したのですが、ある時何気なしに運転手と話していたら、日本語がおかしい、と言われました。相手にする暇も無かったのでそのまま降りましたが、いま思うと、あの頃は家長の立場を背負って、医療関係者、父の勤務先、入居していたホーム、親族たちと渡り合っていたのでした。女のくせに言葉遣いが違う、と若い男性運転手は思ったのかもしれません。

女なら常に1歩退いた位置でものを言う、それがオトコたちのunconsciousな受容姿勢のような気がします。会議の場で初めてものを言うと、揶揄的な、懐疑的な、ときには指導的なまなざしや発言が返ってくる経験を、どれだけ繰り返してきたことか。