講談

日本古書通信」1135号に、目時美穂さんが「音声再生装置としての講談速記」という文章を書いています。明治の半ば頃、大衆紙には小説とは別に、講談の速記が連載され、愛読され、単行本にもなっていた、というのです。明治32(1899)年には東京府下の新聞18種に12種の講談物が載っていたが、大正末期には姿を消してしまったという。そのきっかけは明治17年、速記術に熱中していた明治法律学校明治大学の前身)の学生2人が、稗史出版社という出版社の依頼で話芸の速記を採ることになり、三遊亭円朝の「怪談牡丹灯籠」の口述速記を採ったことだそうです。翌年には、二代目松林伯円の講談「安政三組盃」を、上野広小路本牧亭に20日間通って速記したらしい。

言文一致体の創出に悩んでいた時代でもあり、語りの言葉の筆録は斬新だったのでしょう。しかしこの速記だけをいきなり読んでも、講談の場を追体験することはできなかった、一度でも現場で聴いたことがあれば記憶によって音声が再現できるが、文字だけからでは音声の特色が再生できないため、講談師の方からは不満があったようです。目時さんは「声の援護を失うと、文字で読む定型的な言い回しは陳腐に思え」たと書いています。ふと、これは平家物語にも共通する問題だなと思いました。語り本系平家物語は、琵琶法師の語りをそのまま筆録したわけではない。語りを聴く効果を再構成した文章なのです。

娯楽の少なかった時代、祖母はラジオにしがみついて浪花節や講談を聴いていましたが、子供心にもそれらの倫理感は古くさく、強引に感銘を強いるのがいやでした。しかし最近、エノキさんが神田拍山を聴きに行って、面白かったと話すので吃驚しました。ちょうど届いた企業の広報誌にも、彼の特集記事が載っています。なかなか生意気な人のようですが、弟子との距離感を大事にしている、との談話に共感を持ちました。