アンコンシャス

3月8日は国際女性デーなんだそうで、内閣府のHPには日章旗と大きなミモザの花瓶を背景に、担当大臣の挨拶が載っています。1977年に国連が制定したのだそうですが、遡れば1917年、帝政崩壊に繋がるデモをロシアの女性たちが実施したところからこの日になったと知って、吃驚しました。

新聞もあれこれ特集記事を載せています。その中の1つに、言葉遣いに無意識の偏見が潜む、とあり、拒否する際に女言葉では命令形でなく、「やめて」という懇願の形式が使われることが取り上げられていました。ふーむ、いろいろ思い当たる。教師という職業は屡々、男女両方の役割を1人で担う局面があるので、自然に性別の指標が削ぎ落とされ、男性言葉に近くなります。殊に学生に対して指導し、指示を出す時は無性話法が多い。私も男女共学校で、大学院生など成人に対して話すにつれ、女言葉は極限まで減りました。第一に語尾が言い切りになる(「ね」「わ」等がなくなる)、また敬語が少なくなる(謙譲語・尊敬語の使用が限定的になる)、といった現象です。

父が終末期に近づいた頃、自宅と病院をよくタクシーで往復したのですが、ある時何気なしに運転手と話していたら、日本語がおかしい、と言われました。相手にする暇も無かったのでそのまま降りましたが、いま思うと、あの頃は家長の立場を背負って、医療関係者、父の勤務先、入居していたホーム、親族たちと渡り合っていたのでした。女のくせに言葉遣いが違う、と若い男性運転手は思ったのかもしれません。

女なら常に1歩退いた位置でものを言う、それがオトコたちのunconsciousな受容姿勢のような気がします。会議の場で初めてものを言うと、揶揄的な、懐疑的な、ときには指導的なまなざしや発言が返ってくる経験を、どれだけ繰り返してきたことか。