成人式

成人の日が1月15日に制定されたのは、かつて商家に丁稚奉公すると、盆と小正月だけに休暇が許されたからだと聞きましたが、現場の教師にとっては疲労困憊するセンター試験の日である年月が続き、その後1月第2日曜日という流動的な日程に変わって、「国民の祝日」というより、若者の燥ぐ日、という印象が強くなりました。

去年は晴着詐欺が騒がれ、今年はコロナ緊急事態宣言下で、屡々目にしたのは「一生に1度のことだから」という台詞です。感染学者が呼びかけた、今年は式典に行くのをやめて欲しい、というツイッターに、口汚い抗議が寄せられるのを見て吃驚しました。

成人式の年は豊島区に住んでいたので、埃っぽい公会堂の式典に平服で参加しましたが、当時はべつに晴着集団はいませんでしたし、式の内容は何も覚えていません。我が家では、大学を了える時が成人、もしくは、女の子は結婚して(子供ができて)初めて大人、と考えていたふしがあります。尤も、同級生には総絞りの振袖を誂えて貰った人もいたようですから、当時の平均的な考え方とは言えないかもしれません。

私たちの世代は「大人になること」を、年齢ではなく行動様式で捉えていたので、50代になっても、こういうとき、大人はどうするんだろう、と考えることがありました。昔、ある職業高校で「大人になるとはどういうことか」というアンケートを取った際の回答の中に、例えばここに、重い荷物と軽い荷物とがあったら、重い方を選んで持っていくこと、とあった(たしか「天声人語」で読んだ話)のが、今でも頭に残っています。

ちなみに私が2歳の時に亡くなった母は、22年後(私が大学卒業する年)満期の貯金をしてくれていました。しかし戦後のデノミネーションのため、¥1000では結婚費用も晴着もまかなえず、父と私とで同額を足して、発展途上国の教育金に寄付しました。

建礼門院右京大夫集

日記文学会中世分科会編『『建礼門院右京大夫集』の発信と影響』という本が出ました(新典社 2020/12)。後記によれば、日記文学会の分科会として中世日記、中でもあまり研究の進展を見ない『建礼門院右京大夫集』の輪読会を、2009~13年にかけて7名で開催、その成果に基づき、幾つかの視座を決めて編んだ論集だそうです。

ある年代までは私も、平家時代の文学として『建礼門院右京大夫集』の研究をチェックしていました。次第に忙しくなるにつれ、不本意ながら自分の研究分野が狭まり、暫くこの作品の論文を読んでいなかったのですが、目次を見ると、あの頃も『建礼門院右京大夫集』を論じる際には必ず問題になっていた、無類の不幸意識、七夕歌群、紙への関心、物語文学との関係、題詠歌群、出自意識が取り上げられていて、懐かしさと共に既視感に襲われました。しかしやはりこの間、研究の姿勢には変化があったようです。

本書の圧巻は、中村文さんの「交響する虚構と実状ー『建礼門院右京大夫集』「題詠歌群」の機能ー」でしょう。『右京大夫集』には前半部に40首の題詠歌、後半部に51首の七夕歌が塊となって並び、日々の実体験に即して詠み出された日記的な部分との関係が問題になっていました。中村さんは題詠歌の題、詞、主情、配列を丁寧に点検し、実情詠と題詠とが別次元のものではないこと、本作品は両者が意図的に組み合わされて構成されていることを解き明かします。作者は資盛との恋愛を漠然とした言辞でまず語り、他者の恋愛等を喩として提示し、虚構の題詠歌を取り合わせて、一つの事態を表そうとした、経験を客観的に捉え組み立て直す「編集」作業によって、悲嘆を相対化し乗り越えていく営為なのだと、中村さんは言います。「我々はもうそろそろ、『右京大夫集』という作品を、「愛と追憶の書」という亡霊から解放してもよいのでは」という結びに、喝采

経済欄

父を亡くしてから、新聞の経済欄を読むようになりました。社会変動の見通しや家計の判断根拠を、自前で持たなければならなくなったからです。実際、経済紙系のTV(日本のTV局は、ラジオ局と映画会社と新聞社の合同で発足した)のニュースコメントは、(好き嫌いは別として)合理的な場合が多い。勿論、素人ですから分からないことばかりですが、努力して読みます。

朝日新聞の金融情報欄に、匿名による800字前後のコラム(「経済気象台」)があります。経済学者、大企業の管理職、中小企業の経営者などが日替わりで執筆していて、たまには業界の我田引水が鼻につく時もありますが、概ね共鳴できる提言が出されます。1月9日には、「2021年に希望があるとすれば、それは政府が賢い政策を実行する」か否かによるとして、労働需要が縮小する業種から、人手不足・人材難の分野へ人を移すことで経済が回り始め、閉塞感も和らぐだろう、そのためのスキルや資格習得への支援、ジョブマッチング情報の提供、現場に必要なスタッフを確保できる財政支援などをすばやく進めることが求められる、とありました(署名は「山人」)。

たまたま同日の経済欄には、「おてつたび」というベンチャー企業のCEOへのインタビューが出ていました。人手不足で困っている地方の観光業や農業に人を送り、1週間から10日ほど手伝って貰うマッチングサービスだそうです。報酬と宿所は用意されるがフルタイムで働かなくてもいいのだそうで、これをきっかけに、地方での就業や定住を決めるケースもあるとのこと。そうならなくても、再訪し、またその特産品を買いたくなるような地域を、出身地と居住地以外に持つことの豊かさを語るCEOは、30歳の女性。素晴らしいアイディアだと思いました。ひところ流行ったワーキングホリデイの国内版です。地方創生だの働き方改革だのと仰々しい音頭を謳うより、まずは実行。

源平の人々に出会う旅 第48回「平泉町・義経の最期」

 元暦2年(1185)、頼朝との確執により、北陸へ逃れたとされる義経は、その後、奥州平泉の藤原秀衡を頼ります。その間に頼朝は、後白河法皇に要請して、義経逮捕を名目に、全国に守護・地頭を設置することに成功します。

【高館義経堂】
 文治3年(1187)10月、庇護者であった秀衡が病死、息子の泰衡は頼朝に揺さぶりをかけられ、義経の館を襲撃してしまいます。義経は妻子と共に自害したとされています。高館義経堂には義経の木像が安置され、その脇に供養塔もあります。義経の末路は『義経記』に詳しく語られますが、『源平盛衰記』も簡単に触れています。

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武蔵坊弁慶の墓】
 武蔵坊弁慶の最期は「弁慶の仁王立ち」として有名ですが、『盛衰記』には記されていません。弁慶の墓は、金色堂のある中尊寺の入り口付近にあります。

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義経妻子の墓】
 義経の妻は、河越太郎重頼の娘です。『盛衰記』には、義経は、妻を左脇に挟んで首を掻き、右手に持った刀で自害したと記されています。妻子の墓は、秀衡が金の鶏を埋めたと伝わる金鶏山の麓にあります。松尾芭蕉は『おくのほそ道』に「秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す」と記しています。

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〈交通〉
JR東北本線平泉駅
    (伊藤悦子)

焼き継ぎ

青木豊さんの「四十五片を焼き継ぎした有田焼」(「國學院雑誌」1364号 2020/12)というエッセイを読みました。青木さんは博物館学が専門です。

焼物は縄文土器以来、修理して使用されてきたことが分かっており、継ぎ方には時代や対象物によって、漆継ぎ、鎹継ぎ、焼き継ぎ、金継ぎなどの技法があります。中でも焼き継ぎは、寛政期(1781~)以来昭和初期まで行われていた方法だそうです。古くは漆かアスファルトで接合したが、寛政期に白玉粉と呼ばれる鉛硝子による接合が始まり、日常雑器は殆どがこの方法で、焼き継ぎ屋という商売もあったとのこと、「丁度来て粗相取りなす焼継屋」という川柳を引いています。

高価な品は漆継ぎや金継ぎで修理したようで、茶道では修理痕もまた一種の風情とすることが多いらしく、趣味で金継ぎの技術を習う人もあるようです。どこかの展示で鎹継ぎを観たことがありますが、あれは痛々しくて、風情とは感じられませんでした。

青木さんが取り上げているのは、幕末から明治初期に製作された有田焼の鉢(口径17・3cm、高さ7・3cm)で、雪山を背景に結氷した諏訪湖を走る白狐と鳥居が呉須で描かれている(青木さんは『本朝二十四孝』と関係あるかとする)のですが、何と45片もの破片を焼き継ぎしているという。特に高価な焼物でもないので、何らかの理由があるのだろうと推測しています(所蔵や伝来に全く触れていないのは残念)。

根津美術館には、53片もの破片を集めて金継ぎした志野茶碗があり、「東海道」(五十三次)と命名されて有名です。我が家は父が九州出身なので、有田焼にはなじみが深いのですが、こういう意匠の鉢は見たことがなく、興味深く読みました。

コロナな日々 12th stage

瀬戸内の島で暮らしている教え子の年賀状には、東京は「無視コロナ」としか見えない、気をつけるように、と書き添えてありました。大晦日の渋谷は結構な群衆がいたようですし、12月中、この界隈でもオジサンたちは午時には連れ立ってランチ、退け時には呑み屋を物色。地方から見たら呆れるしかない数字が連日出て、全国に広がっている、と見えるでしょう。GoToの実施が早すぎ、停止が遅すぎたことが影響を及ぼしたのは明瞭です。マスクや手洗いは「さしあたってそれしか方法が無い」という予防策であって、万能ではない。接触を減らし、移動を避けることが感染症予防の基本です。

そもそも感染拡大阻止と、経済を「回す」ことを、政府が二律背反的に唱えるのは正しいでしょうか。コロナを停めるのが第一、それによるダメージは別途手を打つのが政治の役目ではないか、ついでに電子マネー普及だのマイナンバーカード普及だのを抱き合わせに目論むような姿勢でなく。そこそこのカネをばらまくが、肝心なところは「個人の心がけ」にお任せ、というのは太平洋戦争の前に歩いた道に似ています。

ガースーに言いたい。いまこの状況では、まず政権交代は起こらないでしょう。ならば今こそ、一時の悪評を被っても「政治家の覚悟」を示す時。この期にあって五輪開催を唱える老体とは訣別し、携帯料金だの不妊治療だの平和時の「善政」は後に回して、いま食えなくなる人たちを支える方法を考えながら疫病流行を遮断すべきです。不動産の賃料を一時的に抑制するとか、今後も必要な医療福祉関連や食料生産への転業を支援するとか、思い切った施策の知恵を出してはどうですか。

銀座の高級和牛会食に出た晩から、風向きは変わった(国民が新首相に期待しなくなった)と知るべきです。コロナは、首相就任のうきうき気分も、会食人数が4人か5人かも、区別はしないでしょう、年末年始を区別しないように。

東大寺

奈良の高木浩明さんから、3日に東大寺へ初詣に行った、人出はこんな感じだった、と写真が送られてきました。

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2021/01/03東大寺

昭和49年から6年かけて、東大寺大仏殿では屋根瓦の葺き替えが行われ、昭和の大修理と呼ばれました。大仏殿をすっぽり覆って鞘堂が建てられ、EVも設置されました。その頃私は大学院生で、都立富士高校の非常勤講師をしていたのですが、国語科教員の旅行によく誘って頂きました。昭和50年か51年の夏休み、つてがあるからと東大寺の昭和大修理見学に行くことになり、私も連れて行って頂き、あの屋根を囲む作業用回廊に上りました。

遠くから見るとなだらかな屋根のようですが、目の前で見ると急峻な絶壁のような勾配です。そこを、材料を抱えた鳶職が身軽にひょいひょいと歩き回るのに吃驚しました。平岡定海氏に解説をして頂き、ふと足元を見ると、降ろした瓦が積んであります。これはいつのものですか、と訊いたら、この前の大修理の時の瓦ですとの答。この前とは、と言いかけたら即座に、建久です、と言われました。重衡が焼き討ちした後、頼朝が修理した時のことでした。