源平の人々に出会う旅 第48回「平泉町・義経の最期」

 元暦2年(1185)、頼朝との確執により、北陸へ逃れたとされる義経は、その後、奥州平泉の藤原秀衡を頼ります。その間に頼朝は、後白河法皇に要請して、義経逮捕を名目に、全国に守護・地頭を設置することに成功します。

【高館義経堂】
 文治3年(1187)10月、庇護者であった秀衡が病死、息子の泰衡は頼朝に揺さぶりをかけられ、義経の館を襲撃してしまいます。義経は妻子と共に自害したとされています。高館義経堂には義経の木像が安置され、その脇に供養塔もあります。義経の末路は『義経記』に詳しく語られますが、『源平盛衰記』も簡単に触れています。

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武蔵坊弁慶の墓】
 武蔵坊弁慶の最期は「弁慶の仁王立ち」として有名ですが、『盛衰記』には記されていません。弁慶の墓は、金色堂のある中尊寺の入り口付近にあります。

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義経妻子の墓】
 義経の妻は、河越太郎重頼の娘です。『盛衰記』には、義経は、妻を左脇に挟んで首を掻き、右手に持った刀で自害したと記されています。妻子の墓は、秀衡が金の鶏を埋めたと伝わる金鶏山の麓にあります。松尾芭蕉は『おくのほそ道』に「秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す」と記しています。

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〈交通〉
JR東北本線平泉駅
    (伊藤悦子)