ヌエ考

沖本幸子さんの「ヌエ考―怪鳥の声をめぐって―」(松岡心平編『中世に架ける橋』 森話社)を読みました。以前、研究発表の形で聞いたものですが、要領よくまとめられていて、面白く、また爽快に読むことができました。

ヌエは現代では、正体の掴めない怪物の比喩としてイメージされていますが、古典文学の中では実際の鳥の名なのか、怪物の名なのかが曖昧です。有名なのは『平家物語』にある、源頼政が闇夜に怪物ヌエを射落とし、近衛天皇を病から救ったという説話で、これは『十訓抄』にもあり、さらに世阿弥が能「鵺」に仕立てています。ところが『平家物語』は二条天皇の代にも同様の事件があったとし、こちらではヌエは鳥になっています。一体、ヌエとは何者なのか。

沖本さんは、現在ヌエは、トラツグミという鳥だとされていることを述べ、『万葉集』や古辞書類、『袋草紙』『玉蘂』には冥界と通じた(不吉な)鳥とされていたことをまず辿りました。そして長門本平家物語』や『源平盛衰記』に見える清盛鵺退治の逸話には、鵺の正体が「毛朱(鼠の唐名)」とあることに注目、浅川善庵が「毛未(ムササビ)」の誤りだろうと考証したことを引いた上で、『殿暦』や『看聞日記』などの史料を参照し、中世・近世を通じてヌエの正体は判っておらず、夜飛ぶムササビをヌエという怪物だと考えていたのではないかと結論づけています。

納得できる論です。長門本の記事の不審もこれで解けました。一方で、能「鵺」の舞台を観た時に抱く、世阿弥はなぜ鵺を主人公にしたのだろう、という名作ゆえの疑問は、私の中でより大きくなりました。

酒器の春

先日、ムスカリの花を名目に使って開いた宴会。お土産代わりに我が家のムスカリビオラを摘んで、小さな花束を差し上げたのですが、早速酒器に活けてみた、と写真が送られてきました。よく撮れていて、小さな花がスターのようになっているので、2枚、御披露します。

f:id:mamedlit:20200321122649p:plain

葡萄ムスカリビオラ献杯

我が家ではよく、小さな器にあり合わせの花を挿します。今、洗面台には、独活の頭を切り落として(天麩羅にすると美味しいのですが、我が家は揚げ物をしないので)、ムスカリフリージアの折れた蕾と一緒に、空瓶に盛り合わせてあります。独活の葉は形が面白く、灰緑色から黄緑に広がっていくのも楽しみですが、アクが強いので毎日水を替えてやらないといけません。

f:id:mamedlit:20200321122807p:plain

酒器にも春

売り切れないうちにと、朝からおはぎを買いに出かけました。ついでにあちこちへ寄り道して、桜の咲き具合を確かめました。どこも未だ1分咲き。赤門前のコンビニでは、入り口にずらりと、桜の名がつく商品が山積みにしてあり、棚がピンク色になっていました(饅頭、煎餅、おこし、飴、チョコレートetc.)。扇屋で胡麻とつぶ餡のおはぎ、それに道明寺を買って帰りました。おはぎは仏壇に上げ、道明寺で一服。このくらいのやさしい甘さがちょうどいい、と思うトシになりました。

校勘の言葉

高田信敬さんの「校勘の言葉―異本・他本をめぐって―」(「国文鶴見」54)を読みました。講演録から原稿化されたそうで、時折、洒落や見栄の混じる文章ですが、丁寧に実例と論証を重ねて、校勘作業に用いられてきた用語を見直しています。我々が異文表記と呼んでいる、写本に見られる「イ」「イ本」などという注記は何を意味しているのか、従来何となく分かった所存でいたことをこれだけ丁寧に論証されると、すとんと胸に落ちます。

異本、他本、一本、などの語は、書写や校合をする際によく用いられますが、どういう使い分けがあるのかは曖昧でした。他の本文を参照して、異なっている部分には「イ」「イ本」などと傍書して、異文を摘記しておくということがよく行われます。我々はそれらを異文表記と呼んでいますが、何故「イ」という記号を使うのか深く考えたことはありませんでした。「異文」または「異本」の冒頭の音を記したのだろう、くらいに漠然と考えていた人は多いでしょう。

高田さんは鎌倉遺文・平安遺文から丹念に用例を集め、平安時代では「他本」の方が例が多く、どうやら校合作業に伴って使われる場合が多いらしいこと、中世以降、「異本」の例が増えるが、「他本」と「異本」は同義ではないらしいことも述べて、異文表記の「イ」は「他」の略号であろうと示唆しています。また「他本」の語は「以~校了」「以~一校了」などの表現と共に用いられるが、「異本」ではそのような例がないとも指摘しています。肯けることです。

私としては、「世流布印本」と対比した元禄年間の例は「異本」という語を使っている、との指摘に興味を惹かれました。校合にも2種類の目的意識がある、という事実に注意しておきたいものです。

カイロからの帰国

伊藤愼吾さんの『南方熊楠と日本文学』(勉誠出版)という大著が送られてきました。伊藤さんがこのところ南方熊楠顕彰館に通って、膨大な熊楠の自筆原稿や書簡に取り組んでいたことは聞いていましたが、早くもこれだけ重量感のある本にまとまったとは、熊楠の精力が乗り移ったかと思うほどです。

送り状に、いまカイロにいますとあったので、早速Gメールで、御礼と、コロナのために移動禁止になる可能性がありますよ、と送信したところ、たった今帰国しました、という返信が来ました。

[エジプトは私が入国した3月1日の時点で感染者2名でしたが、今や196名の症例を公表するに至っています。16日午後、エジプト政府が19日から31日までの空港閉鎖を発表し、国際交流基金が私を急遽帰国させることに決めました。17日朝にはエティハド航空からオンラインチェックインの案内が届いたので手続きを済ませ、それから日が暮れるまでカイロ大学への提出書類やアパートの後始末、前払いした家賃の清算やこれまでの活動報告(仮)の作成などに追われました。そして18日朝に空港に向かい、アブダビ経由で戻ってきた次第です。危うく4月以降の帰国となるところでした。

14日(土)午後に大統領の指示で大学が休校となり、その間、オンライン授業などが検討され、学内はたいへんなことになりました。私もカイロ、アレキサンドリアルーマニアの日本語の先生方とウェブ上でミーティングをしながら、オンラインの操作方法を確認しました。

今回の仕事は初めて尽くしでした。大学院の授業やオンライン授業の準備(来週から実施)から、アパートの大量の雨漏り、砂嵐、タクシードライバーとの運賃交渉などなど。これからの私にとっていい経験になると思います。(伊藤愼吾)]

伊藤さんは国際交流基金の事業としてカイロ大学に派遣され、文学部日本語日本文学科の客員教授として招聘されたのだそうです。またとない経験でしたね。

青山

父の命日が近いので、彼の好きだったフリージアを花屋に取り寄せて貰いました。白と紫を計30本。うち10本にほかの花を足して、青山霊園へ出かけました。例年通り、母方の祖父母の墓にまずお参りします。20年ほど前、初めて来た時は鬱蒼と木々が生い茂り、本家の従姉からはすぐ分かるよ、と言われたのに、線香が燃え尽きるほど探し回っても見つかりません。諦めかけた時、ひょいと梢を見上げたら、木の間から墓石が僅かに顔を出していました。今は並木の桜も植え替えが進み、周囲の木が刈り込まれて、青空にくっきりと墓石が立ち、背後には赤坂や六本木の超近代的な高層ビルが聳えています。

その後墓地を縦断して、旧友の墓にお参りしました。並木の桜は樹1本にやっと1,2輪咲いているくらいで、桜の花って1輪だとこんなに小さかったっけ、と思いました。旧友の墓の前の水場に植えられた河津桜が満開で、蜂や虻が三々五々、蜜を吸いにやって来ています。ダウンを着ずに来たのですが、タートルネックが煩わしいほど暖かい。ベンチでゆっくり新聞を読むことにしました。風の中にかすかな花の匂いが混じっています。沈丁花でしょうか。亡くなってから40年、子供たちはそれぞれの道を歩み、彼女によく似た面差しの孫も2人できました。10代の頃の2人に戻って、一緒に花の下に座っている所存だったのですが、ピクニック気分の2人連れが隣に座って、英語で喋りまくるのがうるさい。墓前のフリージアに手を振って、帰途につきました。

青山は通りの店が始終入れ替わっています。空いているイタリア料理店で昼食を摂り、何年続いているか訊いてみたら、7年目でこの辺では最古参になったそう。来年もやっていてね、と言って出ようとしたら、1年後と言わずまたどうぞ、と返されました。

呑む理由

去年差し上げたムスカリの球根が発芽しなかったとのことで恐縮し、小さな鉢に植えておいた株を改めて差し上げる、との理由づけで、3人連れで呑むことにしました。以前にも入ったことのある焼き鳥屋、差し向かいで喋りまくりながらの3時間半。たっぷりの濃厚接触でした。徳島旅行のお土産ということで、銘酒と山菜をどっさり頂戴しました。隣席は、かなりの殺気を発するサラリーマン3人連れ。働いていれば、コロナ自粛に従って職場と家の往復だけ、という生活はできません。

私以外の2人は日本酒に飛び抜けて詳しいので、メニューを見ては次々に1合ずつ、各地の銘酒(主に東北の酒だったようです)を注文。よもやまの話が弾みました。4世代と生活を共にしている人からは、認知症グループホームの話、コロナ休校でこのところ世話をしている孫の話、工学部から法学部へ転部した人の若い頃の話や、コロナ騒ぎで公共図書館が閉めてしまったために仕事が上がったりだという話・・・普段は触れることのできない、しかも合間合間に共鳴できる話題が、ひょい、ひょいと出てくるところが酒の席の醍醐味です。

学術雑誌の査読の公平性をどう担保するのか、若手研究者を後押ししたその後のこと、特別支援教育の現在、酒席初心者は弱い酒を呑まないことが鉄則だと教えられたこと・・・この店が客に選ばせる盃が結構いい焼物だったので、私も気分よく呑むことができました。肴は鴨の串焼き、鶏皮のポン酢和え、茄子と南瓜のスペインサラダ等々。

最後に抹茶アイスクリームを食べ、未だ少し寒い早春の街へ出ました。駅までの間に入ってみたい店を幾つも見つけ、また呑みましょう、と言って別れました。

平家物語市民講座

COVID19のため、両講座とも日程変更の可能性があります。詳細は各HPをご覧下さい。

4月から、伊藤悦子講師による平家物語の新しい講座が開講するはずでしたが、コロナ感染予防のため、延期されていました。まもなく開始される予定です。伊藤さんは立正大学の卒論で平家物語御伽草子を取り上げ、システムエンジニアとして勤務した後、國學院大學大学院の博士課程で必要単位を修得しました。平家物語に登場する人物の遺跡に関する膨大なDBを作り、最近は合戦図屏風の研究もしています。

【朝日カルチャーセンター横浜】「平家物語」三十講

全30回の中の6回(6/12開講) 平家物語の原文をじっくりと読み、権力の栄耀と暗闘・戦場の人間模様・女人達の悲哀・人の世の無常等々のテーマを考えていきます。諸本や史料、絵画資料などを参照しながら、史実との関係、人物の描かれ方、合戦に関する知識などについても解説します。今期は、巻八の頼朝と義仲の対比から、巻九の木曾義仲の死、一の谷合戦まで。

◆テキスト 大津雄一・平藤幸編『平家物語 覚一本 全』(武蔵野書院)2,000円+税

https://www.asahiculture.jp

【毎日文化センター】「平家物語」を読もう

全6回(7/3開始予定) 物語の流れに沿って原文をじっくりと読み、その魅力に迫ります。今期は巻六の名場面を取り上げ、物語周辺の史料も参照しながら、史実との関係、人物の描かれ方、合戦に関する知識などについて解説します。

◆テキスト 毎回、プリントを配布します。

http://www.mainichi-ks.co.jp/m-culture/each.html?id=900