校勘の言葉

高田信敬さんの「校勘の言葉―異本・他本をめぐって―」(「国文鶴見」54)を読みました。講演録から原稿化されたそうで、時折、洒落や見栄の混じる文章ですが、丁寧に実例と論証を重ねて、校勘作業に用いられてきた用語を見直しています。我々が異文表記と呼んでいる、写本に見られる「イ」「イ本」などという注記は何を意味しているのか、従来何となく分かった所存でいたことをこれだけ丁寧に論証されると、すとんと胸に落ちます。

異本、他本、一本、などの語は、書写や校合をする際によく用いられますが、どういう使い分けがあるのかは曖昧でした。他の本文を参照して、異なっている部分には「イ」「イ本」などと傍書して、異文を摘記しておくということがよく行われます。我々はそれらを異文表記と呼んでいますが、何故「イ」という記号を使うのか深く考えたことはありませんでした。「異文」または「異本」の冒頭の音を記したのだろう、くらいに漠然と考えていた人は多いでしょう。

高田さんは鎌倉遺文・平安遺文から丹念に用例を集め、平安時代では「他本」の方が例が多く、どうやら校合作業に伴って使われる場合が多いらしいこと、中世以降、「異本」の例が増えるが、「他本」と「異本」は同義ではないらしいことも述べて、異文表記の「イ」は「他」の略号であろうと示唆しています。また「他本」の語は「以~校了」「以~一校了」などの表現と共に用いられるが、「異本」ではそのような例がないとも指摘しています。肯けることです。

私としては、「世流布印本」と対比した元禄年間の例は「異本」という語を使っている、との指摘に興味を惹かれました。校合にも2種類の目的意識がある、という事実に注意しておきたいものです。