卓袱台返し

某大国の次期指導者がどうなるか、社会主義国の指導体制はどこまで膨張し続けるのか、弊国の政治家たちの倫理感、殊に金銭感覚の劣化をどう防げばいいのか、無力感に陥没しそうな心配ごとが続きます。国内でも未来に確信が持てず、政治はとりあえず目先の保身と人気稼ぎばかり。少子化、財政不安、世代間の無理解、社会的貧富差拡大・・・ふと思うのは、こんなに大きすぎて解決方法の見えない問題がどうして増え続けるのだろう。

世界が巨大になりすぎたー単純ですがそんな思いに囚われます。一個人の生涯で見通せる時間、空間、因果関係の諸要素を、技術進歩がもたらした万能感が超えてしまったのではないか。それなのに、現状分析や将来予測、それに益する哲学が、旧来通りの型枠でしか作動していないのでは。

あまりに漠然とした、幼稚な言い方ですが、この頃そんな風に考える場合が増えました。つまり世界が爆発的に拡大、複雑化したのに、旧来と同じ大きさの枠、手元と同じ距離内からしか発想せず、同じような空間しか見巡らしていないのではないか、変えるべき前提を変えずに計算式を組み立てているのではないか、と。

例えば、成長する社会を目指して政治をするのは、もはや正しいと言えるのか。喫緊には、縮小していく社会(人口、経済成長、生産と消費等々において)の見取り図を描き、それに見合う哲学と政策を編み出して、人々に問うことが求められているのではないか。幸福度を物量や金銭で測るのでなく、身の丈に合った国家、社会、家族、生涯を構想する過程を示すことが、いま必要なのでは。

隠者の世界観を現代に勧奨するわけではありませんが、根本的な価値観の是非を問う、いわば卓袱台返しの哲学が提示され、冷静に議論されてもいいのではと思う昨今です。