回想的長門本平家物語研究史(序)

講談社の勧善懲悪児童文学から脱皮して、文学に目覚めたのは14歳の夏、芥川龍之介によってでした。徹夜で読みふけり、雨戸を開けたら台風一過の強烈な朝光と、隣家のジャズピアニストが弾く曲節とが降り注ぎ、一瞬、目眩がしたことを昨日のように思い出します(楠の葉に溜まった雨露が燦いていました)。誰でもそうでしょうが、思春期はつらいことが多い。ヘッセや太宰治など、父母が若い頃に読んだ蔵書の中から、自分は何故生まれてきたのか、何故生き続けなければならないのかを問うて書かれた文学を読み漁りました(後に知ったのですが、英文学を専攻した母も、芥川のファンでした)。

しかし、芥川は天才至上主義です。彼自身もその価値観に苦しみ、まして平凡に生きようとしている私には、手が届かない。生まれてきた以上、無名であってもその生は、この地球上で何らかの意味があるはず、寝入る前にはいつもそんなことを考えました。大学へ入り、日本古典文学や近代詩や外国文学を乱読しながらもその思いはずっと引きずっていて、いわゆる歴史社会学派ー益田勝実、永積安明、石母田正たちの名文章に出遭うまで胸の奥に蟠っていました。

学部3年の末に1ヶ月欠席して、東南アジアを廻る見本市船に乗りました。帰ってきたら、同級生は卒論のテーマと指導教授が決まっていて、出遅れました。当時本文確定が始まったばかりの宇津保物語か、金槐集は果たして万葉調と言えるのかというテーマか、もしくは未開拓資料の多い室町期和歌、または平家物語というところまで絞って、指導教授になるはずの井本農一先生(近世俳諧が専門)に相談に行きました。金槐集は小さすぎて雑誌論文向き、宇津保物語は大きすぎ、室町和歌は井上宗雄氏を越えられない、平家物語は新しい作品だから何でも言えるよ、との指導で、方向が決まったのです。