川越便り・マニア原点篇

薔薇マニアの友人に、思い出の薔薇3つを挙げよ、という謎をかけたら、こんなメールが返ってきました。長い話なので編集しました。

クイーンエリザベス

【私の薔薇好きの原点は病弱だった小学生時代に遡ります。

その当時の住まいは、父が戦中勤めていた中島飛行機という会社の社宅でした。終戦とともに、会社は解体され、ごく一部が立川基地の進駐軍の仕事を下請けする会社として残りました。社員の多くは、プリンス自動車という会社を興してそちらに移りました(後に日産自動車に吸収合併された)。父は実家が基地の正門近くで米屋などを営んでおり、家の手伝いもしていたので、進駐軍にそのまま勤める道を選び、社宅を買い取って住み続けました。茅葺の二軒長屋でしたが、道沿いのわずかな垣根に2本の薔薇がありました。赤い薔薇と、ピンクの薔薇です。人間でさえ食うや食わずやの生活ですから、肥料も何もやらず、ただ生えているだけです。しかし毎年春になると、それはそれは奇麗な花を開きました。道行く人がよく、花を貰えませんか?と言って立ち寄ります。母は喜んで何本か剪って上げていました。

私は通学できる体ではなかったので、入学を1年遅らせました。ところが、校長先生が訪ねて来て、年に数回でも、1日数時間でも通学したという形をつくればいいから、入学したらどうか?と勧めてくれました。それで、母は生まれたばかりの娘を背負い、乳母車に私と下の弟とを乗せて学校へ送り届け、2時間くらい後にまた迎えにきました。記憶力だけはよかったので、そういう特別の配慮のおかげで、2年生に進級でき、2年の担任は満州から引き揚げてきたまだ若い女の先生でした。ある日、急なことで授業が打ち切りになりましたが、母に連絡する手段がありません(当時は電話も普通の家にはありませんでした)。困惑していると、先生は私をおぶって家まで送り届けてくれたのです。あの時の先生の背中の優しい温もりを、生涯忘れないでしょう(遥か後に知ったのですが、先生にも身体障碍の一人息子がおり、先生はご主人を亡くして女手一つで息子を育てていたということでした)。

というわけで、薔薇の季節には、とりわけ奇麗に咲いている薔薇の花束を作って学校に持っていき、教卓に飾って貰いました。先生との繋がりを求める私の気持ちと、母の感謝の気持ちを込めていたのではないかと思います。赤い薔薇の名は分かりません。ピンクの薔薇は「クイーン・エリザベス」ではなかろうかと思います。花の色と形、樹形、時代などからの推測です。その思い出のために、今も庭に1本植えています。】

ときめき

同い年の彼と私を繋ぐのは、「同病相憐れむ仲」です。私も母から貰った結核脊椎カリエスで、小学校入学を1年遅らせ、3年までは殆ど登校せずに進級させて貰いました。たまの登校は祖母が乳母車で送迎してくれましたが、悪童どもに囲まれてよく虐められました。彼のようなロマンチックな思い出はないなあ。

田毎の月

彼の思い出の薔薇2位以下はときめき、田毎の月、ヘンリーフォンダ、だそうで、甘美なストーリーの数々はいずれまた。