30年前の平家物語論

昨日、大学図書館でできた作業は、進行中の付注シートの穴を埋める資料探しに取りかかることと、取りあえず読んでみたい雑誌論文3本を見ることでした。学会誌をめくりながら、数年前の号なのに誰も開いた形跡がないほど真新しいことに、却って痛々しさを覚えました。図書館利用者が激減したこの3年間が見えるからです。そしてもう一つ、各学会が、何とか時代に合ったテーマを立ててシンポジウムや特集を組もうとすることの、意義(意欲)と同時に、これも一種の痛々しさ(無理してるなあ)を感じました。尤も、新しい研究を開くには多少の無茶振りは必要かもしれません。

「中古文学」101号(2018/5)には、シンポ「平安時代文学・文化における音声と書記」で篁物語、俊成、そして平家物語について3人の講師が述べた論旨と、司会の神田龍身さんのコメントが掲載されています。兵藤裕己さんの「物語テクストの成立と証本(正本)の政治学」について、遅まきながら言っておかなければならないことを、ここに書いておこうと思います。

一言で言って、これは兵藤物語であって、資料や写本の事実からは遠い。ここ30年、彼が語り続けてきたストーリーに過ぎません。これまで何人もの研究者が提起した批判や新事実を全く無視している。屋代本平家物語は一部平家の台本ではありません。摂津大覚寺文書の使用法には誤りがあり、長門本が琵琶法師を支配した寺院で書写・管理されたという根拠もない。なお四部合戦状本は当道周辺の本だという前に、表記法の問題を考える必要がある。延慶本古態説や長門切にも全く触れていない。神田さんの言う通り、「比類なき完成度」の物語ではあるが、「個々の琵琶法師の語りと文字テクストの関係」、何故声わざが必要だったのかという問題には届かない、意匠きらきらの物語です。