朝顔と光君

國學院大學学報1月号に竹内正彦さんの「『源氏物語』の新たな「読み」とは」が載っています。竹内さんは自らの立脚点は研究史を踏まえ、折口信夫に学ぶもので、物語の表現そのものに向き合うことから出発したいと言う。読みの一例として、女三宮が柏木に姿を見られる場面(若菜上)を挙げ、そのきっかけとなった唐猫は光源氏が贈ったのではなかったかとしています。私は最新の源氏物語研究を知らないので、この読みに対する評価は分かりませんが、そうだとすると、運命を語る物語の恐ろしさを感じます。

もう一つの例、光の口説きを拒みながらも完全に心を閉ざすわけではない、朝顔の姫君が明石姫君入内の際に薫物の調製を頼まれ、「散りすきたる梅の枝」につけて贈ってきた歌の解釈(梅枝)については、私はちょっと引っかかりました。竹内さんは、朝顔は老いの感傷を詠んだのではなく、やがて満開の時季が来る、との儀礼的な祝歌だと言うのですが、私が記憶している朝顔という女性のイメージには合いません。

贈答が完了することによって結果的にはそういう儀礼になっていきますが、朝顔自身はやはり、老いてひっそり暮らす自分と、娘の将来を華々しく飾り立てる光とを対置し、貴方とは結ばれないが思い出として深く残ります、花の香が袖に残るように、と言っているのでしょう。プラトニックに歌う女に返した男の歌は、人も気づく香りを隠そうとなさっても、私はますます貴女に心惹かれます、という相も変わらぬストーカーぶり。

久しぶりに源氏物語を拾い読みしました。光源氏は周囲に向け、いかにも朝顔と寝たかのような歌を詠み続けます(厄介な男だ)。朝顔は多分、少し年長でしょう。かわし続けながらも、嫌いではないのよ、と宥めています(面倒な女だ)。賢明でもあり、身分も年齢もそれができる位置にいました。これが源氏物語には素人の、私の読みです。

学部生時代、同級生たちとよく源氏物語のどの女性が好きか、という話をしました。朝顔が好きだ、という人がいて、結構むつかしい人でしたっけ。