源氏物語宿木巻評釈

田村俊介さんから「源氏物語宿木後半評釈(2)」(「富山大学人文学部紀要」75号)の抜刷が送られてきたので、解説を読んでいるうちに、本文批判の問題は作品ごとでなく汎く共有されるべきだ、と痛感したので書いてみます。私は源氏物語の諸本研究については、30年前に阿部秋生先生の著書を読み囓り、源氏物語でさえこんなに大変なんだ(個人の著作であり、書記本文であることがはっきりしており、定家の校訂を経て多くの研究蓄積があるにも拘わらず)、と嘆息して以来、研究動向を逐次追究しているわけではなく(それに田村さんの文章は、些か舌足らずの面がある)、あくまで素人の感想ですが。

解説は、1宿木巻の釈文の底本及び「合成」の巻以外の巻から注や鑑賞で語句を引用する際の本文について と2注釈のあり方について とに分かれ、その後に宿木巻の最後4分の1について、釈文・略注・鑑賞を掲出していますが、注は大半が既出の校注書からの引用なので、本人の主張は鑑賞欄にあるのでしょう。

解説1の中で田村さんは、現在広く使われている大島本の本文に問題があることは認めつつも、その「相対的古態性」「相対的優秀性」をもっと吟味した上でなければ、源氏物語の別本を羅列的に発掘、評価するのは徒労ではないかと思うようになった、と言っています。別本の時代の享受が反映された異文なのか、その親本の時代のものなのか、または誤写によって生じた異文なのか、区別できているのか、と。そこだけ見れば通じやすそうな異文も、前後の文脈や他の巻の記述と照合すると不適切な場合もある、と。

思い当たります。平家物語源平盛衰記でも同様の例は少なくない。田村さんは最近話題を呼んだ新出若紫巻についても触れています。新発見の資料の評価、殊に自分が発見した新事実は、当人が最も意地悪く検証する習慣が、プロの条件。