選歌、評釈

季刊の歌誌「玉ゆら」83号(2024新年号)が出ました。比較的高年齢の女性の同人が多いらしく、詠作には介護や老いを歌ったものが多く見いだされます。日常詠が大量に並ぶと、率直に言って1文31字の散文形式と殆ど変わらないなあ、という感があり、短歌を詠む営為とは何か、と考えさせられました。

散文と韻文の違いは字数や音律よりも、表現に飛躍があるかないか、ではないかと考えています。言葉が現実と1対1対応でなく、始発と結果とを連続的に述べるのでなく、事実の描写が心理や感情、もしくは時空を超える想念に微妙に接続し、置換される可能性を持っている、それが韻文の言葉なのではないか。私は実作者ではないので、的外れのことを言っているかも知れません。十分に説明できている自信があるわけではありませんが、そんな風に考えています。

本誌には同人によるアンソロジーや秀歌撰、また評釈が沢山連載されているのですが、それらを読んでいくと、選歌もまた一つの表現、自己主張であることが痛感されます。添えられた評釈によって選ばれた歌がより活き活きと、際立つ場合も多い。もとになった歌集を読んでいないのに、選歌・評釈によってその世界が起ち上がってくることもありました。選歌、配列、歌判が歌人の重要な営みであったことは、中世歌人の伝記を読むと分かりますが、現代においてもそうなんだ、と改めて思いました。

1首の中に英文を交えた挑戦作も何例かあって、独特の「歌」になっているなと目が止まりました。主宰者の秋山佐和子さんは、あわや還付金詐欺に遭うところで警官から「高齢女性」と呼ばれた衝撃を、18首の連作に詠みました。結びの歌は

藍染は水くぐるたび色深む過誤をなしつつ生きゆかむかな(秋山佐和子)。