歌誌『玉ゆら』79号の編集後記に、今号の渡英子さんの作品評は「今後の指針となる行き届いた評」とあったので、注意して読んでみました。前号掲載作品への寸評です。
なるほど、単なるお仲間の心温まる感想とは一味違うな、と思いました。1首の読みが深く、選ばれた語を一々吟味していて、短文で示す注目点がくっきりしている。さすがプロの評です(私は、作歌には素人ですので)。例えば、「慰藉の言葉ではなく病む人へ朝な朝なひらく花のみずみずしい生命力を伝えて余韻がふかい」と評された歌は、
身めぐりに病む人のあり大輪の紺のあさがほ咲くを告げなむ(秋山佐和子)。
「「ありがとう」の意のロシア語とウクライナ語の違いを、野鳥の声の「聞き做し」から詠む(中略)。独立を守るのは自国語を守ることだ」と評した歌は、
スパシーバのウクライナ語はジャークユ国境のなき野鳥のさへづり(同上)
でした。作品世界を歪曲も誇張もせず、しかし広げて見せる手腕こそ批評でしょう。
坂のなき町より来れば上りては下る感触足裏にうれし(吉崎敬子)
には、「山の手線から都営荒川線に乗り替えての町歩きが楽しそう。町並みは変わっても地形は同じ。過去と現在の往還を「足裏」がとらえている」とあります。
風通る奥の座敷に寝転びて『女の一生』読みし高一の夏(鈴木久美子)
へは、「「奥の座敷」の「奥」が、夢見る少女だったジャンヌの現実の生の苦悩を暗示するようだ。文学全集の配本を待ちかねて読む時代があった」と。
母のゐたホームの窓につく灯り母の部屋にはもう別のひと(伊東民子)
やうやくに自由になれた母さんはきつとまつ先にふるさと野田へ(同)
に対しては、「「自由」に現世の母の不在に気付くのが切ない」と述べます。