百錬抄

松薗斉さんの論文「『百錬抄』に見える中世人の歴史認識」(「日本歴史」2020/2)を読みました。勧修寺流藤原家を始め諸家の日記・記録類からの抄出によって年代記的に構成されている『百練抄』は、欠巻があるものの安和元(968)年ー正元元(1259)年の世相を知るには貴重な史料です。

本書は、六国史が絶えた後の私撰国史という見方をされてきましたが、松薗さんは、中世の人々が知りたい「歴史」(国家行事の年代記ではなく事件的・物語的な歴史)を著そうとして作業に着手したものの形式と歴史認識の板挟みとなり、中途半端な(未完?)状態で終わってしまったものと考えています。また平安中期以来書き継がれてきた日記のなかに蓄えられたさまざまな情報が、貴族社会の外にもこぼれ落ち、流通していて、それらが軍記物語や説話集に採り込まれた時代なので、歴史書と軍記物語と説話集を区別して考える近代以降の認識は、通用しないのではないかと論じています。

我が意を得ました。注釈作業などで『百練抄』を読むと、これは記録というよりある種の歴史物語だと思うことが多いからです(『軍記物語論究』2-3京洛のいくさ語り 若草書房1996)。しかし『百練抄』には、記事の扱い方にばらつきがある。編者に迷いがあって一貫しなかった、と考えると納得がいきます。

平家物語』や『愚管抄』が成立した時期には、大規模な説話集が次々に成立しており、しかもそれらはそれぞれに、「時代」に関する自前の意識を持っていた(つまり、一種の歴史意識の上に立っていた)ように思われるのです。それが軍記物語の成立とどう交差したか―そういう問題を考えあぐねていた矢先だったので、思わず膝を打ったことでした。