慈円

児島啓祐さんの論文を3本、読みました。①「『愚管抄』の災異叙述と中世天文道」(「国語国文」7月号)、②「『古事談』巻五第三十「元暦大地震」説話考」(「伝承文学研究」69号 8月)、③「慈円の観法と和歌ー月輪観・阿字観をめぐってー」(「日文協日本文学」8月号)の3本です。

児島さんは近年、慈円や『愚管抄』の研究を精力的に発表しています。慈円は政界トップの家に生まれ、宗教界トップの地位に就き、『新古今集』にも多数入集した歌人でもあり、歴史評論愚管抄』を書き、『平家物語』の作者伝承とも関わる、いわばあの時代のキーマンです。その周辺にはさまざまな可能性が渦巻いていたに違いない。著作の『愚管抄』は、面白いが未だに謎も多く、従来も研究は少なくはありませんが、さらに客観性のある新しい研究が出て欲しい、ずっとそう思ってきました。

①は『愚管抄』に登場する「慈円僧正」は、災異に対処し、その意味を正しく判断するよう求める役割を担っており、当時は天文道の中での争いがあって、正しい説を見極める必要があったのだと説きます。②は『古事談』巻5第30話を取り上げ、陰陽道龍神説と密教の竜宮宝物帰還説との交差した地点に形成されたとし、また古来から、文芸上では地震と雷が混融される例が多いとしています(私は源平盛衰記巻17の小子部栖軽の記事を連想し、興味ふかく思いました)。③は『拾玉集』2457歌の解釈から、慈円の円密一致を志向する実践的姿勢と、浄土信仰と融和した月輪観・阿字観の受容を指摘しました(歌の2句、直接体験過去の助動詞を無視してよいか、5句の「かくる」は「掛くる」ではないかなど、疑問を持ちました)。注15がないのは何故?

文章が今一つ大事なところでつるりと滑る感じがあるのは残念ですが、力作です。