ジェンダーバイアス

大津直子さんの「『伊勢物語』六十段「花橘」小論―女子大学の教室から、注釈のジェンダーバイアスを考える―」(「同志社女子大学日本語日本文学」34号 2022/6)を読みました。伊勢物語六十段は、主人公の昔男が宇佐の使として下った際、「宮仕へいそがしく、心もまめならざりけるほど」の「家刀自」が今は他国で人妻となっているのを知り、酌をさせて、「さつき待つ花橘の」という歌を詠みかけ、女はそれを聞いて「思ひ出でて、尼になりて山に入」ってしまったという、有名な話です。

近世以前から、伊勢物語の注釈は、この話が昔男を見限った女の浅慮と後悔を語っているとして、やや懲罰的に説いてきました。しかし女子大で、それを鵜呑みに講じようとすると何かひっかかる、と大津さんは言うのです。昔男のふるまいからは、優雅な懐旧の情よりも、自分を捨てて格下の男の許に移った女への陰湿な執着心を読むべきでは、と。

そして「まめ」「家刀自」という語の含意、当時の結婚制度、伊勢物語における宮仕えの意味、人妻の出家決意の例を考察し、本話は女の自己決定権を揶揄する話と読むべきではなく、昔男の多忙さとまめでない心とが、自らの人生にはそぐわないと判断して異なる道を選んだ女に対して、今は権力的に上位にある昔男があてこすりのメッセージを出した話で、出家した女の心中は読者の推測に委ねられている、と言うのです。

私も概ね賛成です。ただ尼になった女は「山に入り」、人目をも避けた。その心境を恥か、憤りや拒絶か、動揺と読むか、教室では読者論的な議論が可能かもしれません。

大津さんの送り状には、ジェンダーの視点を初めて教わったのはmamedlitの授業からだったと添え書きしてあって、吃驚。ジェンダー論やフェミニズムの文学論を読んでいると女の自分が惨めになるので、私は嫌いでした。女子大の講読では源氏物語の幕切れや、建礼門院右京大夫集、とはずがたりに対する男性研究者の視点を批判しましたが、男女共学の学校ではそういう機会がなかった―いつ、そんな講義をしたっけなあ。