古典的公共圏

前田雅之さんの『古典と日本人ー「古典的公共圏」の栄光と没落』(光文社新書 2022)を読みました。私は断続的に読んだので、頂戴してから時間が経ってしまいましたが、一気呵成に読める、威勢のいい本です。著者の博識、饒舌、衒学が十二分に発揮され、時には古畳を出刃包丁で切り裂くような痛快さが味わえます。

扇情的なイベントや出版物で評判になった長い書名の本(略称「コテホン」)が提起した、学校の教科として日本古典文学や漢文を学ぶ必要があるのかという論争がきっかけになったらしいのですが、通勤途中の読書としても、湯上がりのロック焼酎の友としてでも一読の価値はあります。但し軍記物語に関する知識は情けない。平家物語を「平曲を視聴する芸能として享受されてきた」「古典になったのは、叙事詩として認定された近代においてであった」というような観点で総括するようでは、平家物語を知っているとは言えません(べつに平家物語を古典に認定せよと言っているわけではない)。またp92、歌物語を作り物語と区別するのは近代人の妄想、と言っていますが、無名草子を御覧なさい。

前田さんは「古典的公共圏」という概念を立て、その成立、展開、繁栄と没落、古典を学ぶことの意義を説いていきます。古典的公共圏とは、古典と呼べる書物(古今集伊勢物語源氏物語和漢朗詠集)の素養と、和歌を詠める知識・能力によって社会の支配集団(「公」秩序)の構成員が文化的に連結されている状態(p124)だとし、世界文学の古典意識と比較し、日本の文化人・教養人の営みを核にその時代的変遷を述べます。

私は前田さんより11年古いので、古典の学びとの関係など大きく相違するのですが、中世以来の校訂・注釈作業が「古典」化の基底にあること、後嵯峨院時代が日本文化の1つの画期であること、近世知識人の遺産など、納得する点は少なくありません。