増鏡の後醍醐天皇詠

君嶋亜紀さんの論文「後醍醐天皇配流の道行と和歌―『増鏡』「久米のさら山」試論―」(「大妻国文」53)を読みました。『増鏡』は歴史物語の中でも和歌が多いことで知られていますが、巻16「久米のさら山」には、元弘の乱の失敗後の後醍醐天皇隠岐配流記事があり、その道程を記すのに後醍醐天皇詠が連ねられているのが特徴で、この点は『太平記』とは異なっています。

17巻本『増鏡』では後鳥羽院詠が20首、後醍醐天皇詠が28首あり、それぞれ16首が配流詠です。『増鏡』は、後醍醐天皇後鳥羽院とは違って、後日都へ還り復権を果たすことを念頭に述べていることがすでに指摘されています。後醍醐天皇の配流詠16首はすべて他の文献に見いだせない『増鏡』独自の記載ですが、君嶋さんは、特に美作国での詠を取り上げて歌語や歌枕の用例を丹念に調べ、これらは『増鏡』作者の創作ではないかと推測しました。和歌の世界での通常の用例からはやや外れるものばかりだからです。

また民を思う視点を読み込んだ詠作についても考察し、総体として「久米のさら山」に語られる後醍醐天皇配流の道行記事には、その討幕行動を後鳥羽院の遺志を継ぐものと位置づける意図が読み取れるとしています。そして後醍醐天皇下命の勅撰集『続後拾遺集』の配列にもその意図は籠められており、南朝で編まれた『新葉集』には、後醍醐天皇の世を後鳥羽院の時代に重ねて語ろうとする傾向を見ることができると指摘し、『増鏡』との共通性を考えたいと結んでいます。

和歌と歴史物語との関係を、単に出典関係だけでなく、表現の構成方法にまで踏み込んで考えていくことは重要です。また物語作者が、実在する人物の詠作を尤もらしく創作していく過程を説き明かすことも必要です。軍記研究者にも求められる視点でしょう。