回想的長門本平家物語研究史(附)

長門本の校本を作るために、村上光徳さんと善本を見て歩いた時期がありました。世は延慶本古態説一辺倒、長門本研究はそっと、でした。思い出はいろいろですー赤間神宮で旧国宝本を全冊撮影させて貰った時は、夏に締め切った障子の中で、本殿からは終日、雅楽の稽古の音が聞こえていました。京都の四条には村上さん行きつけの隠れ家のような呑み屋がありました。あれはどこだったか、異業界から参入したビジネスホテルを予約したら、シングル2室のはずだったのにツイン1室になっていて、2人ともフロントでむきになって怒り、あんなにむきになったら互いに相手に悪かったかな、と後で反省しました。

村上さんは駒澤大学の生え抜き、代々足利にあるお寺の住職でした。若い頃は承久記や平家吟譜を研究、はやい時期に慈光寺本承久記を紹介したりしています。旧国宝本以外に地元で藩が写した長門本があるはず、と山口や名古屋で根気よく尋ね歩き、地元の郷土史家や学芸員からヒントを引き出す手腕には感服しました。

定年後暫くして膵臓癌のため公職を退き、足利に籠もったと聞いて、出版社の車でお見舞いに行きました。遠くに小山のある一本道を、行けども行けども着きません。通行人もいない。とうとう、どーんと突き当たった小山一つがお寺でした。山門の仁王像は県の重文、境内には天然記念物指定の松があるという古刹です。

着ぶくれた村上さんは、定年後はトラクターを運転して農作業をしたが、猿に作物を奪られるのでやめた、本堂の脇に梅林を作った、と話していました。水は裏山から湧いてくるけど猪が水浴びするので、飲用にはならない、とのこと。ほどなく訃報が届き、お通夜には駅前から送迎バスが出ていましたが、あの一本道の両側ずっと山の麓まで「永台寺」の提灯が懸け連ねられ、一村挙げての葬儀でした。もの柔らかだった村上さんの一面を知らないままの人も多い。今頃は梅林の紅梅が開き始めていることでしょう。