回想的長門本平家物語研究史(8)

昭和40年代の半ばから、水原一さんがそれまでの四部合戦状本古態説を批判し、延慶本古態説を主張し始めました。従来、和文体より漢文体、年代記的で素朴な記述の方が古い本文だとの先入観から、源平闘諍録や四部合戦状本、屋代本が古態本と位置づけられていたのですが、四部合戦状本は延慶本のような広本を略述したもので、所々意味不明の箇所があるのはそのためだと論証してみせました。

軍記物談話会で四部合戦状本本文批判の発表を聴いた時、未だ私は大学院在籍中でしたが、深く納得しました。四部本には室町物語的要素が見いだされ、漢文と言っても変体漢文で、鎌倉初期の正統的漢文文学とは性格が違う、と密かに思っていたからです。世は忽ち延慶本研究一色になりました。水原さんの論調も次第に声高になり、戦線拡大していきました(延慶本古態説を回顧する際は、その変遷を辿ることも必要)。

「富士には月見草がよく似合う」という座右の銘を持つ私は、延慶本研究に飛びつくことはしませんでした。相変わらず兄弟関係にある長門本の伝本を訪ね歩き、書誌情報を蓄積し続けていたのです。水原さんからは、延慶本こそが平家物語研究の鍵だ、長門本なんかに賭けて何になる、と軽蔑的に言われたこともありましたが、私はそういう心算で長門本を選んだわけではなかった(渥美先生の本に、長門本の庶民的性格と研究が遅れていることとが指摘されていたのが、対象に選んだ理由)ので、黙っていました。

ほぼ悉皆調査に近くなった頃、指導教授が代わって紹介状を貰うことが困難になり、高校教諭としての勤務も忙しくなって、伝本調査は休止状態になりました。そこへ村上光徳さんから、長門本の校本を作れないかとの話があって、それから暫く、閲覧や撮影のため各地に同行する歳月が続くことになりました。