現在の研究地点から長門本を見る人は、延慶本との兄弟関係がまず視野に入るようですが、長門本は延慶本よりもはやく(近世から)、壇ノ浦の阿弥陀寺にある平家物語として注目されていました。しかしそれ以前については、殆ど何も手がかりがありません。
成立や管理者について具体的な仮説を立てて論じたのは、渥美かをる氏からで、私の1966年の夏は、国会図書館で渥美氏の雑誌論文を手書きで写して(当時はコピー代が安くなかったので、書写するのが普通、終日籠もって雑誌論文1本半がやっとでした)、それを吟味し反論すること、長門本の特異な説話群の意図を考察すること、また国書刊行会の本文を教育大学図書館蔵の長門本と比較して評価する日々でした。作者名を実在の関係者に直接結びつけることへの疑問は、すでにこの時から芽生えたものです。
卒業後企業に就職し、研究者になる所存はなかったので、長門本平家物語研究は私の中ではそこで終わっていたのですが、指名されて雑誌「国文」(1967)に要約を出し、後年(1990)、武久堅編『日本文学研究史大成 平家物語』に採録されました(私としてはいささか不本意でした。もっと前進して書いたものがあるのに)。
しかし私は大学院へ入り、文学研究を生涯の武器として鍛える決心をしました(この辺のことは「新入社員だった頃」と題して本ブログに書きました)。早速、軍記物談話会(現 軍記・語り物研究会)で特異な説話群とその管理者について発表したのですが、山田昭全さんから、当時の仏教は宗派がきっかり分かれているわけではない、管理者を特定の宗派や宗教集団に求めることは難しい、と言われて一遍に目が覚めました。
その後も砂川博さん(1970)を初め管理者考に属する論考がつぎつぎに出ましたが、私は、管理者考では明確な結論を出せない、と見切りました。