続・定年時間

定年後すぐは、TV番組が新鮮に感じられ、毎日ラテ欄を見てはあちこちの局の番組を視ました。学生時代から定時制高校に勤めた期間、家に受信機がなかったのです。鳥取へ赴任したら夕刊がないので受信機を買いましたが、ニュースとドキュメント、古典芸能ぐらいしか視なかったので、その間の情報の空白が埋まり、毎日のように発見がありました。

TVだけでなく、ツンドク書や専門以外の分野のものを読む度に、知識の空白部分が埋まっていき、さまざま「胸に落ちる」経験の連続でした。枝葉だけだった経験識が幹や根で繋がり、さらに好奇心が広がって、誇張でなく忙しい日々が続きました。異分野にはもっと知りたいこと、面白そうなことがある、と焦る気持ちすら湧きました。定年後の幸せはこれだ、と言っても過言ではないかもしれません。

今年に入って、文字通り「千里の道も一歩より」という仕事が眼前に降ってきて、下拵えに愚図愚図しました。コロナのため調べ物の場が閉ざされた状況下、果たして作業が可能かどうか・・・元勤務校の図書館は在学生限定、母校は学生・職員以外構内立ち入り禁止、近くの公共図書館は1回の利用時間2時間以内。すべて理由のある制限なので、否定する気はありませんが、定年後の時間も有限です。それはシビアな、自らの寿命に区切られた時間。現在のような状態がだらだらと引き延ばされるのは、勘弁して欲しい。杜鵑ではないが、血を吐いて叫びたくなるくらいの切実さがあるのです。

私だけではない。こういう状態が2年も続いたら、修士課程は殆ど入学した意味がないし、学部でもほぼ同じでしょう。行政だけに責任があるのでもないでしょうが(夜の公園で外呑みする諸君は、大学構内に入れる特権の貴重さを分かっているのか?)、今はコロナ収束を優先順位第一に施策を組むのが、真面目な政治の条件だと言いたいのです。