歌集『鉛筆』

菅野節子さんの歌集『鉛筆』(喜怒哀楽書房)を読みました。菅野さんとは全く面識がありません。あとがきによれば1950年生、歌誌「玉ゆら」の同人で、高校教諭を離職後、塾講師などを勤め、近年は、歌人三ヶ島葭子の娘倉方みなみに興味を持って論じているそうです。本書は204頁、自選歌493首を収めており、自費出版でしょうが、5本の鉛筆の絵をあしらった装幀もすっきりしています。

私は実作者でも短歌評論の専門家でもないので、日常詠を中心とする個人歌集を批評するには不向きですが、ぱらぱらと飛ばし読みを始めて、おや、と思い、最初からめくり直しました。韻文だな、と思ったからです。がつんと来るものがある。

マチュアの日常詠を読む時、しばしば疑問に思うのは、何故短歌なんだろう(さらに何故、文語体なんだろう)ということです。散文で書き留める31字とどこが違うのか。どこが違うと主張したいのか。本書のそこここに発見したのは、主語述語のある散文で説明される日常ではなく、自分がいま掴んで、差し出したいものはこれだ、とばかりに、ぎゅっと据えて在る光景でした。散文的な作も混じってはいますが、例えばこんな歌ー

マーブルの瓶に挿したる竜胆はつぼみのままに枯色となる

ゐたのだらう心やさしき弱法師は貴賤の人にぶつかりながら(能「弱法師」)

白蓮は此の面彼の面に浮かびゐて五月の風を取り込まむとす

身のたけが一寸ばかりのエンジェルはガラスの羽根を一まい落とす

秋の日はここにきはまるしづしづとウェッジウッドを染めゆくくれなゐ

「玉ゆら」最新号にはこんな作もありました。

残り糸編みては花になしてゆくひとりの時間わたしは巣守